Tasse Tee

島原ふぶき



 コーヒーマシンを買い換えそびれていた、と気づいたのは、よりによって恋人が初めて滞在国を訪れた最初の朝のことだった。
 渡航して間もない僕は、炊飯器よりもコーヒーマシンが欲しくなって、ドイツにならどこにでもある家電量販店のチェーンで大手メーカーの純正品を買った。カートリッジ式で、日本でも愛用していたマシンの上位互換製品だった。暫くは毎朝使っていたが、マシンの調子が悪くなってからは潔くインスタントコーヒーに切り替えた。家電量販店で予算や質を吟味しながら選ぶのより、近所のスーパーのインスタントを安い方から順番に試す方が話が早かったし、僕は朝起きてコーヒーを飲み、夜寝る前にコーヒーを飲む人間だった。これで元は、というか日本では頑なに紅茶派だったのだから笑ってしまう。所変われば、という話だ。
 そういえば彼女とはいつも紅茶しか飲んで来なかった。紅茶、紅茶、あの時は酒。あの夜もバーだったから酒か。紅茶と酒、どちらも水が美味くないと根底的にまずい飲み物だ。そしてその点で言うなら、我が祖国は世界有数の水に恵まれた土壌だ。その分高い湿度に悩まされ、夏は地獄を見るわけだが。
 彼女はまだ起きる気配がなかった。慣れない異国で人知れず神経を張っていたのだろう、昨夜はベッドに入ってすぐ眠りについてしまった。限られた時間の中で愛を交わすのは遠距離恋愛の醍醐味であると同時に、代え難い苦難でもある。会える日に気分の乗らない日などないし、どんなに疲れていても恋人を感じれば疲れを後回しにしてでもその愛を貪る。恥も外聞も掻き捨てて、頭のどこかでみっともない、と自嘲しながら汗を拭う。僕が汗をかくのは行きつけのジムで体を動かしているときと、彼女に会うときくらいだ。日本では許されないそうした生活も、この国では難なく達成される。気温は19度をさしていた。曇り空が今日の気温はこの辺りが上限だと告げていた。
 僕は1杯目のコーヒーを入れてから、彼女のコーヒーの好みを知らないことに気付いた。日本でもお馴染みのラベルだがサイズはひと回りもふた回りも大きい。大さじで2杯掬ってマグカップの底に沈め、少なめに沸かしたお湯を半分まで入れた。そして脂肪分3.5パーセントの標準的な牛乳を注ぐ。どんなに雑に作ってもとりあえずは飲める味になる組み合わせだった。
 僕は微妙にぬるいコーヒーを半分ほど飲んでから窓際に立ち、遮光性の高いカーテンを開けた。夏の早い夜明けにもかかわらず今日もヴェストファーレンの空はどんよりと重く冷たい。初夏なのに秋口みたいで、下手をすれば今日は大雨が降るだろう。雷がやかましくて、足元がグズグズになる類の馬鹿げた雨が。彼女の真新しい靴が水溜りに捕まるのを想像する。僕が不愉快になってどうするのか。
「こっちの雨はまるで台風みたいですね」
 露わにして良い不快感も、腹の底に飲み込みながら彼女はそう言って笑うだろう。着いてすぐにドラッグストアで買った折り畳み傘を広げながら。その謙虚な笑みは強いられている無理を表象しない。健気で穏やかで大人な笑み。踏み込むことを拒むハイコンテクストのコミュニケーション。僕が長年触れてこなかった祖国の息遣いだ。
 外交官という仕事は、日本を背負う仕事でありながら、その実いちばん日本から遠いところにいる仕事である。外交官である限り、僕たちは数多くの日本人を異国に出迎え、数多くの日本人を異国から見送る。常に先導し、常に残される立場なのだ。内勤の職員は順番に回ってくる役割だが、今のところ僕にはその予定がないし、こちらでの仕事も軌道に乗っていて引き継ぎの目処も立っていなかった。つまり日本に帰る予定がなくて、日本に残したままの恋人を一時的に招く羽目になったのである。
 彼女は小説家で、企業勤めをしている人ではなかった。だから休暇を取るのはそう難しくないと、僕に向けてはそう言った。しかしその僅かな休暇を捻出するためにどれだけ事前の準備を必要としたか、何を犠牲にしたかなどは詳しく告げようとしなかった。彼女はこうも言った。この旅行は取材なのです、出版社の方に紀行文を出さないかと言われていて。未知の世界を取材し、それを題材に文を紡ぐ「仕事の一環」として、僕の過ごす場所を選んだのだという。いちいち会うのに言い訳をしなければいけない不自由さが面倒で面白くて、それより何より彼女のことを愛しく思った。だってそうだ。世界に数多くある未知の領域から、僕の領域を選び取ってくれたのだ。どんな人脈でも頼れたはずだ。格好をつけようと思えば如何様にも。それこそ僕も彼女も知らない世界はずっと広大に広がっているだろうに、未知の世界として真っ先に挙がるのが僕の世界だなんて、愛しいにもほどがあると思った。初の海外渡航を少しでも快適なものにしてほしくて、ビジネスクラスの往復券を送りつけたのは僕のわがままだった。煩雑な乗り継ぎも必要ない。フランクフルトまでは車で迎えに行った。アウトバーンで2時間の予定がもっと早く着いたのは、よほど僕の気が急いていたのだろう。
 彼女がこの街の石畳を踏みしめた時の僕の気持ちを説明するのは非常に難しい。感動的だったし、ひどく嬉しくて、同時に抱いていた野望がひとつ叶ってしまった瞬間に特有の寂しさを覚えた。
 僕がゆっくりとコーヒーを飲み終えても彼女は起きなかった。そんなに無理をさせたつもりはなかったが、それほど心地よく眠ってくれているのなら泊めた側としても安堵するというものだ。僕は時計を睨むようにじっと眺め、近所のスーパーが既に開いていることを確認した。最寄りのディスカウントスーパーは7時から営業している。日本のコンビニのように24時間やっているような店はドイツにはほぼないが、早朝営業の店と深夜営業の店がきっちり分業していて、結局どちらの経営状態も圧迫していないのだからwin-winの関係だと思う。財布とマスターキーと携帯、買い物に必ず使っているマイバッグ、それから折り畳み傘を持って音もなく自宅から出た。目当ては当然、硬度の低いミネラルウォーターだ。
 
 外へ出ると曇り空は急に晴れ始めた。今日は天気が悪いんじゃなかったのかと苦笑しながら無用の長物と成り果てた傘をトートバッグに仕舞う。エコ先進国と名高いドイツではマイバッグ文化がすっかり浸透していて、不織布の安価なエコバッグの中には使用済みのペットボトルが詰まっている。この国では全てのペットボトル飲料には25セントほどのファンド料金がかかっていて、ペットボトル飲料を買うときに必ず徴収される。ペットボトルを返却すればちゃんと返金されるのだが、大手のスーパーには必ず返却用の大掛かりな機械が設置されていて、返したペットボトルのファンド合計金額に応じてレシート形式の返金クーポンが発行される。レジで商品と一緒に提出すれば自動的に合計金額から値引きされる仕組みだ。これが案外、溜まると馬鹿にならない。ゴミの分別を呼びかけるだけでは達成され得ない高リサイクル率を叩き出しているのは、こうした厳然たる制度によるものだ。僕はおかげでペットボトルを出先で捨てることが出来なくなってしまった。そんな制度の整備されていない日本においてさえ。
 スーパーに入るとすっかり馴染んでしまった独特の匂いが漂う。強い洗剤と青果と焼きたてのパンの香りだ。自宅から最寄りで、最も来る頻度が高いため商品の陳列棚は手に取るようにわかった。ミネラルウォーターは日本でも取り扱いのあるフランスの天然水にした。この国では水とビールは地域差が大きくて、全国的に同じ品質のものを買うことはまず不可能と言っていい。ライン川水系の天然水はドイツ国内でも比較的マシな方だとは聞く。他の地域に定住したことがないから僕は詳しくわからない。旅先ではいつもビールを飲んでいるからだ。
 目当てのものをカゴに入れ、ペットボトルを返却してからフラフラとスーパーの中を回る。チーズはまだある、ハムも昨日買った。パンは彼女の好みがわからないから、種類の違うものを4種類買った。この国が世界に誇るのはビールとソーセージ、そして多様なパン。食べ比べてもらって好みのものを模索してもらうのも良いだろう。彼女に食べさせたいものはたくさんあった。カルトーフェルザラートもその一つ。日本語で言うならポテトサラダだが、想定されるマッシュポテトとは全然違っていて、これはやはり現物を食べてもらうのが早いだろう。バケツを模した巨大な容器を手に取り、慎重にカゴに入れた。シュラクザーネ、今の時期ならシュパーゲル。気がつけば増えているこの国特有の食材に苦笑しながらさっさと会計を済ませた。クレジットカードの暗証番号を打ち込みながら、30分も買い物をしているうちに彼女が起きていないか少しだけ心配になった。
 レジ打ちの男には去り際に良い週末をと言われた。そういえば、今日は土曜日だった。明日はスーパーが開かない。開いているところもあるが、ほぼ例外なく長蛇の列を作るので今日のうちに買い物をすませるのが定石だ。日本人は日曜日にまとめて買い物に行ったり、大型量販店であれば日曜日に家族で出かけたりするが、ドイツではまず見られない光景である。そもそもアパートもショッピングモールも開いていない。
 存外、彼女にいちばん見せたいのはそういう姿なのかもしれなかった。そうした日曜日のドイツの姿を見せて、不便でしょうと笑いかけるのが僕の仕事であるような気すらした。あなたの未知の世界、探し求めて頼ってくれた未知の世界で、僕はこんな不自由と寄り添いながら生きていると教えてやりたい。不便ですねとはにかんだように笑って欲しかった。そうして笑顔に溶かされたら、何か救われるものがあるような気がした。
「恭輔さん」
「ああ。やっぱり起きてたか、ごめん」
 自宅へ戻ると彼女はもう起きていて、髪を梳いていた。前にあった時よりも少し髪が長くなった気がする。あくまで体感であって、伸ばしているんですかなどと無粋なことを訊く気は無かった。彼女の少し重い髪が指先を通って滑るのが好きだった。そのまま後頭部を撫で付けて抱きしめるのがいつもの癖だった。梳いたばかりの髪に触れるのは気が咎めて、買ったばかりの品物をダイニングに放って彼女の隣に腰掛け、肩を抱いた。寝起きの体温はまだ上がりきっていない。
「お買い物だったんですね。おはようございます」
「書き置きくらい残していけばよかった。おはようございます」
「私もさっき起きたところなので。ええと、Keine Sorge.(心配ありません)」
「千景さんの語彙は優しい言い回しが多いね」
「教えてくれた人が優しかったんですよ」
「無償でドイツ語を教える人は皆優しいと思う」
 僕は彼女の特性を見抜いた言い回しを的確に教えている、その名前も知らないドイツ人に少しだけ嫉妬した。しかしそれを表情に出さずに褒めることくらいは僕の年の男なら誰でもできることだ。僕はそっと肩から首にかけてなぞるように触れて、頬に触れるだけのキスをした。挨拶がわりの朝のキス。本当は唇にしたかったけど、僕はさっき自分がコーヒーを飲んだことを思い出してやめた。
「よく眠れた?」
「もうぐっすりと」
「寝てたね。なかなか起きなかったから僕も安心してしまった」
「恭輔さんのベッド、これとっても良いものですね。すごく寝心地が良くて」
 千景さんはブラシを小脇において僕に身を寄せてくる。凭れかかるように力を抜かれて、彼女を支えるのが嬉しかった。腕の中に恋人がいる感触というのは、言語化の難しい安息を齎す。息をして、動いて、発熱するいとしい生命が腕の中に息づいている。たまらなく幸せなことだ。いつもなら1日に何度か夢見る感触で、思い描く空想のそれより何倍も充足しているように思った。
「お買い物に行ってたんですね。昨日も行ったのに」
「ミネラルウォーターが切れてしまって」
「水道水ではダメなんですか」
「ダメではないけど」
 僕は言葉を探した。千景さんのために紅茶を淹れてあげたくて水を買いに行った、と言ったら彼女は呆れるだろうし、同時に恐縮するだろう。言わない方が伝わる気持ちだって世の中にはたくさんある。僕は彼女の飲めないコーヒーを淹れたくないし、起きてすぐの紅茶がまずいからドイツの朝が最悪だったとも思わせたくない。彼女の快楽のために僕は色々なことを犠牲にする。彼女の快楽、彼女の喜びが何よりも僕を満たすからで、僕の生きる領域ごと肯定させたい、と思えばこその行動だった。我ながら性格が悪くて呆れるが、要は僕はそれだけ、彼女を満足させることに躍起になっているのだ。
「コーヒーでも良いんですよ」
「飲めるの?」
「……頑張れば」
「無理しなくていいんだよ」
 僕は彼女を腕に抱いたまま暫く動けなかった。喜ばせたい、幸せであってほしい。あなたの眼に映る未知はどんな輝きを放っていることだろう。僕の領域はあなたを傷つけないか、あなたを困らせはしないか、そんなことばかりが気になる。僕の不安を看破するように彼女はもぞもぞと動いて向き合った。寝起きの少し無防備な柔らかい笑み。この穏やかな表情に癒されるために、お互い離れている間に積んだ時間のことを思った。
「紅茶を淹れてくる。一緒に飲もう」
「私、恭輔さんがコーヒーを飲んでいるの、初めて知りました」
「日本では飲まないから」
「それだけで来た甲斐があったと思います」
 それがどういう意味なのか僕には少しわからなかった。でも彼女が満ち足りた表情をしていたので、僕はあらゆることがどうでもよくなって、そう、と素っ気ない返事をした。照れ隠しなのは、作家の彼女にはきっとバレていたと思う。
 彼女から離れると彼女の残り香を強く感じた。ひとの匂いを覚えるなんて久々のことで、これからきっと僕は紅茶をますます一人では飲めなくなるんだろうな、と思った。
 今日はどこへ行こう。何を見せて、どんな世界を知ってもらおう。見慣れない食卓からタンカーの行き交う川、重く曇った空、犬を連れたまま乗れるバス。それらすべてを彼女に伝えて、彼女の目が関心に濡れて光るのを、僕は心の奥底でひどく期待したのだった。
END

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