宵越しの一杯

稲月瑠



 自分が特別な人間だ、って思ったことのある人間はこの世にどれだけいるんだろう。人間なら一度や二度、盗んだバイクで走り出したくなる年頃に、自分は他の奴とは違うんだって屋上から叫ぶくらいはしたことがあるとは思うけれど、多分そういう思考ははしかみたいなもので、大人になったらみんな自分は何の変哲もない社会の歯車だなんてしおらしくなるのだろう。皆に愛される存在であるわけでもなく、皆を救える力を持つわけでもなく。明日死んだってニュースで大々的に報道されて悼まれるわけでもなく、地球が自転を止めるわけでもなく。
 そういう意味では僕もけして特別な人間などではない。だって、僕を嫌いな、あるいは僕に何の関心も抱いていない人間は世界に山ほどいるだろうし、僕は誰かを救えないし、僕がもしニュースになるような死に方をしたってテレビの前の大勢は「ふーん」で済ませるだろうし、僕の死によって地球は滅亡しない。僕だって、自分を特別だなんて思わない。
「おはよう」
 ところで僕には好きなひとがいる。狭いアパートで同じ朝を迎える、心の底から愛しているひとがいる。共に夜を越えて、寸分違わぬ景色を見て、そのやわらかい手を握って世界の終わりを迎えたいと思うひとがいる。
「おはようございます」
 ぴったりと隙間なく敷かれた隣の布団に横たわるそのひとに、一日の始まりの言葉を返す。彼女は朝陽が霞むほど眩い笑みを浮かべ、僕の右手をそろそろと撫でた。骨ばった中指の間接を確かめるように細指でなぞられ、僕はくすぐったさに身震いする。しかしやめてくれと伝えるのも間違っているような気がして、僕はただ曖昧な顔をする。
 濃紺のカーテンの向こうから刺すような陽がこぼれている。しばし僕の指と戯れたあと、彼女は寝起きとは思えないほど俊敏な動きで布団から起き上がった。
「今日も暑いねえ」
 額にうっすらと浮かんだ汗を拭い、僕に背を向けて寝巻きに手をかける彼女の姿を、僕はぼんやりと眺めた。僕も大概頼りない体つきで、友人からは食べる箇所のない骨付き鳥なんて揶揄されたこともあるけれど、彼女はそんな僕よりもずっと華奢な身体をしている。女性らしいふくよかさで硬い骨を覆ってはいるが、僕のようなひょろっちい男でもどうにかしてしまえそうな、どことなくか弱い印象を覚える身体だ。
 翼でも生えてきそうなうつくしい形の肩甲骨の間、白い背中の真ん中を、一滴の汗がこぼれ落ちる。静かな呼吸に合わせてふくらむ脇腹に、次いでくびれから腰にかけてのなだらかな線に、僕は視線を移していく。性的な訴えかけが僕の頭を焦がすけれど、僕は熱の残った指先一つも動かさず、ああ彼女は生きているのだと、それだけを考えていた。
 特別ではない僕の隣で、きっと同じように特別ではないだろう彼女が息をしている。一片の陰りも、全身を覆う歪も、その身に宿すことなく、一人の人間として生きているのだ。
 それだけで僕はどんなに幸せで、どんなに胸が苦しくなって泣き出しそうになるだろう。
「せいじくん、今日は玉子焼きとスクランブルエッグ、どっちがいい?」
 いつの間にか真新しい白いシャツとスカートに着替えた彼女が、くるりと振り返って僕を視界に収めた。僕はじんと熱くなった目の奥を落ち着かせるべく瞬きをして、「スクランブルエッグ」と短く答える。
「ほんとに好きねえ。ハムもつける?」
「この前買ってきてくれたプチトマトも、まだあるならお願いします」
「あの甘いやつ?ちゃんとあるわよ。美味しいよね」
 彼女は僕の頭を軽く撫でると、「台所借りるね」と立ち上がり僕の元から離れていった。彼女の歩みに合わせてぎしぎしと軋む床の音と、全身に伝わる振動が無性に心地よい。冷蔵庫の扉の開閉音が、鍋とぶつかったフライパンの低い声が、僕たちを包む夏の蒸した空気が、僕がいる現実を明確に突きつけてくる。僕が生きる日常を明瞭に描いている。けして特別などではない僕が生きる、けして特別などではない一日の始まりを。
 随分と前に覚醒していたけれど、何となく億劫で動かせなかった体に鞭打ち、僕は緩慢な動作で起き上がる。汗を吸った寝巻きを脱ぎ捨てる前に、二本の足で立ってカーテンを開く。途端に視界に満ちた白い光に目が眩んで、僕は小さな呻き声を発しながら、陽光に網膜をやられないよう瞼を下ろし、いそいそとカーテンを束ねた。閉めきっていた窓を開けると、蝉の鳴き声が僕の全身に襲いかかってきた。耳をつんざくような命の叫びは、とても僕の手に負えない。悔しいけれどどうしようもないから、僕は折角開け放った窓を半分閉め直す。相変わらずうるさい声は止まないが、多少なりとも遮るものがあるおかげで幾ばくかマシに思えた。
 じいわ、じいわ、どこか遠く響く声を聞きながら、僕はゆっくりと両目を開く。夏の陽が照りつけ、僕の腕をじりじりと焼く。太陽は平等だ。何者にも容赦なく光を浴びせる。彼女のような人間にも、僕のような人間にも。この世で唯一の平等なものだ。僕たちの目に見えるもので唯一、僕たちにとって平等であるものだ。
 瞬きをする度、青い残像が瞼に散る。どこか歪な太陽の痕跡が僕の視界を満たす。こんこん、ぱき、ぐるぐる、じゅう。何十回と聞いた音が、蝉の声を押し退け僕の耳に注がれる。
「せいじくん、顔洗ってらっしゃい。ついでに新聞もお願い」
 特別じゃない僕の、特別じゃない一日が、今日も始まりを告げる。

 ひかるさんは僕よりも少し年上で、僕のような何の特徴もない人間が隣にいたら干からびて死んでしまいそうなほどまばゆくて綺麗な人だ。ある土砂降りの日に僕たちは街角で出会って、なし崩し的にこういう関係になった。
 僕は人に誇れる取り柄なんてなくて、体も貧相で、安月給でこきつかわれているしょうもない奴だが、ひかるさんは違う。頭がよくて、僕が聞いたこともないような資格をいくつも持っていて、実年齢よりも若く見える顔はどんな女優よりも美しく整っていて、非の打ち所のない女性だ。僕が繋ぎ止めていい類の人ではない。永遠に同じ朝を迎えたいなど、間違ってもそんな思いを寄せてはいけない人なのだ。
 そういう人なのだけれど。
 僕は、彼女にとても釣り合わない僕は、それでも、彼女の隣で寝起きをしたいと思うのだ。出来るだけ長く。一分一秒でも先の未来を、共に目に焼きつけたい。たとえそれが叶わなくとも、僕はそう願っていたい。
 何の面白味もない言い方だけれど、僕はひかるさんのことがほんとうにすきだから。
 僕は冷水を適当に顔に浴びせた後、郵便受けから新聞を抜き取った。これまで一度も新聞をとらなかった僕が、ひかるさんの鶴の一声で契約したものだ。インクのにおいが充満した紙面には、テロだの事故だの不穏な言葉が所狭しと並んでいる。
 ちっぽけな僕が生きる大きな世界を満たす、漠然とした不安の数々。同じ空の下で確かに起きたはずなのに、どこか遠くの宇宙の出来事のように感じるそれら。同様に、僕の死だって、この世界の人々にとっては、人知れず咲いた花が人知れず踏みにじられた程度の感慨しか得られないものにすぎない。それはとても寂しいようで、しかし仕方のないことなのだろう。他人の痛みなんて分からないのが人間だ。僕だってひかるさんの痛みを正確に理解できやしないし、逆も然りだ。非常に悔しいことに。
 僕はため息を一つこぼして、来た道を足早に戻る。新聞を机の上に放り、敷かれたままの布団をたたんで押し入れにしまいこむ。代わりに座椅子を二つ引っ張り出して、向かい合うように設置した。次いで新聞の下敷きになっていたリモコンを救い出し、テレビに向ける。古いテレビは一、二秒遅れて目を覚まし、異世界の喧騒を僕らの住処に放った。蝉の声とニュースキャスターの声がぶつかり合い、不協和音のように響く。
 無表情でニュースを読み上げるキャスターの姿をしばらく眺めた後、僕はひかるさんのいるキッチンへ足を向けた。その時ようやくハムと卵の焼ける香ばしいにおいに気付き、僕は唾液を飲みこんで「ひかるさん」とキッチンを覗き込む。
 ひかるさんは、額に浮かんだ汗を何度も手の甲で拭いながら、真剣な顔でフライパンと向き合っていた。ばちばちばち、と火花が飛び散るような音が満ちる中、ひかるさんが僕の顔を横目で見て口を動かすけれど、僕はそれをうまく読み取れず、「え?」と首を傾げる。
「コーヒー」
 じいわじいわ、ばちばち、喧しい有象無象をかき分けて、ひかるさんが張り上げた声が僕の耳に触れる。
「もうちょっとで出来るから、せいじくん、バリスタでコーヒー作って」
 僕の視線は独りでに室内を彷徨い、冷蔵庫の横に置かれた段ボール、そして調理台の端に座っているバリスタを視界に収めた。最後に首が真正面に向き、ひかるさんの横顔を捉える。僕は「はい」と頷き、念のためもう一度「はい」と大声で主張して、その場にしゃがみ込んだ。
 申し訳程度に段ボールを封じているへなへなのガムテープを剥がし、僕は箱を開ける。ほしいものはわざざ探さなくてもすぐに見つかった。この段ボールには、コーヒー粉の袋が一つ、それしか入っていないのだ。数か月前にはメーカーも消費期限もすべてが一致したコーヒー粉がみっちりと詰め込まれていた箱も、今では底が見える状態になっている。
 力なく倒れた袋を掴んで、僕は立ち上がった。食器棚から不揃いのマグカップを連れ出し、バリスタの元へ案内する。説明書通りに粉を入れ、水とミルクを新鮮なものに変えてしまえば、あとはバリスタが勝手に旨いコーヒーを作ってくれる。僕は緑色のマグカップをセットして、コーヒーの文字と絵が描かれたボタンを押した。ががが、と一際大きい声を上げ、体を揺らしたバリスタは、数秒の間を空けて黒い液体をとぽとぽとこぼす。水面は徐々に上昇し、最後の一滴が注がれると漆黒の波紋がカップの淵を濡らした。
 僕はそれを脇に置くと、もう一つのマグカップを同様にバリスタにセットする。コーヒーの粉を二匙、三匙入れながら、僕はひかるさんに目をやった。フライパンは未だ油を跳ねさせているが、徐々に落ち着きを取り戻しつつあるようで、バリスタの主張もかき消すような音はいつの間にか聞こえなくなっていた。代わりに、窓をすり抜けてきた蝉の声が耳元で響いている。
「ひかるさん」
 僕が普段と変わらぬ声量で彼女の名を呼ぶと、ひかるさんは料理を移している皿から顔を上げた。
「どれにします?」
「ああ」ひかるさんは視線を上の方にさ迷わせ、うーんと考え込んだ後、「カフェラテ」とにこやかに答えた。
 僕は「はい」と頷いて、バリスタに視線を戻す。中途半端に放り出していた右手の、一本だけ伸ばした人差し指が、丁度カフェラテのボタンの上に留まっていたのに気付き、僕は胸が締め付けられるような気分になった。
 白い雲に覆われた焦げ茶の湖が少しずつ形作られる。僕はそれを、ただぼんやりと眺めている。

 ひかるさんの料理は、僕のそれより薄味だ。焦げ目のないふわふわのたまごは口の中でほろほろと崩れ、ほのかな塩味を残して喉を滑り落ちていく。箸で掬い上げるようにして黄金色のたまごを何度も口に運ぶ。控えめに盛られた料理が次から次へと姿を消し、代わりに白い皿の素肌が現れる。朝はどうしても食欲がわかないらしいひかるさんが、「せいじくんは朝からよく食べるねえ」と呆れたように笑いながらぱりぱりのハムを噛み切った。
 僕たちは絶え間なく汗を流しながら、何気ない朝を享受している。もはや蝉の鳴き声に何の感情も抱かなくなって、ばらけた足並みで食事をして、氷をたんまり放り込んだぬるいコーヒーとカフェラテを啜って、そんな朝を生きている。時折顔を上げて、ふと目が合っては笑ってみせて、そんな風に僕らは生きている。
 それから暫く言葉のやり取りもせずに朝食に向き合っていた僕らの耳に、甲高い子供の笑い声が飛び込んできた。何が楽しいのか文字通りバカ笑いをしながら、おい待てよ、なんて言ってバタバタと足音を響かせている。
 太陽だって一切の手加減なく地面を焦がすような夏の朝だ。じっとしているだけで汗が噴き出す季節だというのに、朝っぱらからよく元気に外を走り回れるなあ、と僕は顔も知らない子供に呆れに近い感情を覚えた。何気なしにひかるさんを見ると、彼女は冷たいカフェラテに口をつけて子供たちがいるであろう窓の外に視線を移した。「暑いのに元気ねえ」と僕が思っていたのと同じようなことを言うので、僕はちょっとおかしくなって、笑いをかみ殺しながら「はい」と答える。
「子供はさ」ひかるさんのカップの中でカラカラと氷がぶつかり合い、ひかるさんの小指を伝ってカップの汗が机に跳ねた。「子供は、なんか、いいよね」
 緩んでいた口元が硬直した。箸で掴もうとしていたプチトマトが、皿の上をころころと転がる。そっとひかるさんの表情を窺う。ひかるさんの瞳は普段と変わらない光を湛えている、ように見えた。口元はマグカップに遮られて分からない。ひかるさんは、まだ、僕を見ない。
 僕は無難に、そうですね、と何でもないような声色を作って返事をした。ひかるさんも、そうよね、といつも通りの優しい声で返してくれた。
 夏の熱気に交じって気まずさが辺りを漂う中、僕たちは食事を再開する。やっと口に含むことができたプチトマトは、果物のようなみずみずしさと甘さを僕の口内にもたらしてくれた。
 僕はプチトマトを一つずつ味わって、最後の一つを残すと箸を置き、コーヒーに手を伸ばした。好きなものは最後にとっておくタイプの人間である僕の癖だ。食卓を囲み始めたころは、よくひかるさんに笑われたものだ。人の趣味を笑ったらいけないんですよ、なんてむきになって反論したら、それはそうだけど気になるものは仕方がない、と返されて軽い口論になったっけ。まるで何年も前の出来事のように僕の頭によみがえるこれは、確か半年ほど前のことだったろうか。
 そんな思い出を飲み下すように、僕はコーヒーを口いっぱいに含んで嚥下した。ごくり、と一際大きく喉が鳴る。喉の奥まで酸味が広がり、トマトのやわらかな甘みを一切かき消してしまう。つけっぱなしのテレビからがやがやと笑い声が聞こえる。僕の姿を笑っているみたいで、少し気分が悪くなった。
 舌先で氷を突きながら、水で薄まったコーヒーを少しずつ腹に収める。食堂を下るコーヒーの存在を自覚すると、不思議と体から熱が引いていく。僕は息を吐き出して、しっとりと湿った首元を拭った。その時だった。
「もうすぐお盆ね」
 ひかるさんがぽつりと呟いた。僕から顔を背けて、窓の外を見つめながら。何度も何度もカフェラテを口に運びながら。ひかるさんは、そう呟いた。
「そう……そうですね」僕もまた急に渇きを訴え始めた口の中を潤すように、コーヒーで何度も唇を濡らす。「お盆ですね。もうすぐ。あと一週間もすれば」
 そしてそれは、ひかるさんにとって大切な日が近いことも意味する。
「あの人の命日ね」
 三度目のその言葉に、僕は未だ慣れずにいる。

 ひかるさんには旦那さんがいた。いた、というのは、ひかるさんがその人と別れたというわけではなく、その人が事故で亡くなってしまったということだ。写真を見せてもらったことがあるけれど、僕よりもしっかりとした体格で、顔も整っていて、ファインダーの向こうに浮かべた笑顔から人柄の良さがにじみ出ている、僕なんかが到底かないそうもない素敵な男性だった。僕が女性だったら、ひかるさんだったら、間違いなくこの人を選ぶだろうな、と思える人。ひかるさんがたまに話してくれるエピソードからも、誠実さと優しさと茶目っ気がうかがえた。代わりに僕が死ねばよかったのに、なんて、思ってしまえるような人だった。
 その人を、最愛の人を失い、傷心のひかるさんに、出会ったのが僕だった。四年前、土砂降りの雨が地面を激しく叩きつける日のことだった。街角で傘もささずに佇むひかるさんに、僕が声をかけたのが、僕たちの始まりだ。綺麗な顔をびしょびしょに濡らしていたひかるさんを放っておけず、僕が自分のアパートまで連れてきた。ひかるさんは何も言わなかった。自分が泣いていた理由も、雨に打たれていた理由も、もちろん旦那さんのことも、何も。
 一晩明けると、ひかるさんは「ありがとう」と一言呟いて、ふらふらと自宅へ帰っていった。それから、またふらふらと僕の家を訪ねてきた。ひかるさんは何も言わなかった。僕も何も聞かなかった。そんなことを何か月も繰り返して、そのうちひかるさんがぽつりぽつりと自分のことを話してくれるようになった。僕は、自分の話はもちろんしたけれど、ひかるさんの話に対しては何も言わなかった。誰よりも愛する人が亡くなったのだ。中途半端な慰めや励ましはいらない。僕はそれを知っているから、ひかるさんの涙の理由も、時々ひかるさんが自棄を起こしたように僕の体に手のひらを這わせるのも、全て聞かない、知らないふりをした。彼女にとって本当に必要なものだけを与えよう、そんなことを考えて、ただひかるさんの傍に寄り添うだけだった。
 客観的に見たらただの意気地なしで他人の心にも寄り添えない、最低な僕の何を気に入ってくれたのだろう。いつの間にか、ひかるさんが僕の家にいる時間が長くなった。テレビとインターネットだけじゃなくて新聞も読んだら、と進言してくれた。僕のために料理を作ってくれるようになった。僕の隣で安心しきった顔で眠るようになった。
 僕たちは男女の関係ではなくて、かといって清い関係でもなくて、どう言い表すのが適当なのか未だに分からないけれど、それなりにうまくやっていることは事実だ。きっとひかるさんの中にはまだ彼が生きていて、僕は彼を想うひかるさんの支えになりたい。他人がどう思うかは分からないけれど、僕は今の関係を気に入っていた。
 気に入っていたのだ。
「お花買わないと。お線香はまだあったっけ」
「あります。あ、でも、ライターが点かないかも」
「じゃあそれも買わないとね」
 僕はひかるさんに好かれたいなんて、本音を言えば少しは思っているけれども、心の底から願っているわけではない。ただ、彼の命日が近づくたびに、どうすればいいか分からなくなって、心に波が起こるのだ。
 このままでいいのだろうか。ひかるさんがもしも旦那さんと共に生きていきたいと望むなら、もしも新しい旅路を行きたいと考えるなら、僕は彼女から離れるべきではないのだろうか。明確な言葉もなく始まったこの関係を、どこまで続けていいものだろうか。
 だって僕は知っているのだ。人が死ぬ痛み。それが自分に近しい人間なら、なおさら。胸が、頭が、全身が痛い。身を引き裂かれる痛みという言葉があるが、本当にその通りなのだと実感する。そこから立ち直ることの難しさ。心にぽっかりと空いた穴を埋める、そんなことは不可能だということ。
 だって、僕は知っているのだ。このままでいいはずがないのだと。
 ひかるさんが冷たいはずのカフェラテにふうふうと息を吐きかける。緊張しているのだろうか、と僕は彼女の一挙一動を観察する。
「それでね」ひかるさんは唇をぺろりと舐める。伏せられた目が僕を向くことはない。「お墓参りに行ったらさ」
「はい」
「これからのことも話そうと思うの」
 カラン。場違いな軽い音が僕の頭を揺さぶった。いつの間にかテレビの声も聞こえなくなって、引いたはずの汗が背中を濡らす。
 コーヒーを一口。しかし喉はすぐに渇いてしまう。かまわず僕は口を開いた。
「これからのこと、っていうのは」
「何やかんやでもう三年だっけ、それとも四年だっけ。せいじくん、私にずっと付き合ってくれたでしょ」
 苦味と酸味のまじりあった唾液をかき集めて飲み込む。僕はじっと彼女の言葉に耳を傾ける。
「そろそろ一区切りつけるべきかなあって思ったのよ」
「一区切り」
「そう」
 ひかるさんはふっと息を吐いて、ようやく僕の目を見た。力強い瞳の奥に、かすかな不安がちらついているように感じるのは、僕の思い違いだろうか。
 そして彼女は、平生と変わらない声色で言う。
「せいじくんと、もうちょっと一緒にいてもいいですか、って」
 黒い水面が揺れる。水の塊が壁面にぶつかる。
「なんていうか。あの人のことはまだ好きなの。あの人以外の人と、っていうのは、まだちょっと考えられないんだけど」
 額を流れ伝う汗が、右目に入って、痛い。
「でもせいじくんと一緒にいたら、答えが出せると思うのよ。だって私、あなたのことも好きだから」
 心臓を握りつぶされるような痛みが僕を襲って、僕は呼吸を止めてしまう。
「だから、一区切り。このままだらだら続けるんじゃなくて、これからはせいじくんと一緒に歩いてみようと思います、っていう決意表明みたいな」
 困ったように、照れたように、ひかるさんが笑う。幼い笑顔があまりにも綺麗で、愛しくて、僕は。
 僕は、瞳の奥から溢れてくるものを押し留めることに失敗してしまった。
「そういうことをあの人にもちゃんと話さないとね……って、どうしたのせいじくん。泣いてるの?」
 僕は「すみません」と返そうとしたけれど、嗚咽が混じって聞くに堪えない声がこぼれただけだった。歪む視界を咄嗟に右手で覆う。ひかるさんが狼狽えているのが気配で分かったから、気にしないでほしいという意図を込めて左手を振ったが、ひかるさんは「どうしよう」と心配そうな声を上げた。
「ごめんね。泣かせるつもりはなかったんだけど……ええっと……」
 首を左右に振る。「大丈夫ですから」と、今度はちゃんとした形の声が出た。「こちらこそすみません」と、顔を隠しながら頭を下げる。
 僕は気取ったことをたくさん思って、その通りに行動してきた。ひかるさんのことが、本当は、本当に、だいすきだった。愛を返してくれなくてもいいから、このまま一生隣にいさせてほしいと思った。ひかるさんが好きで、好きで好きで好きで、大好きだから、僕は一分一秒でも長く彼女の傍にいたかった。
 だから、彼女がこういった形で僕の欲しがったものを返してくれたのが、とてつもなく嬉しくて、言葉に出来ないほど、辛い。
「ひかるさん」
 乱雑に頬を拭って、まだ涙があふれる瞳にひかるさんを映す。眉を下げたひかるさんも可愛らしくて、僕はそれだけのことにも泣き叫びそうになる。
「……ありがとうございます」
 そう口にしてから、こんなこと言わなければよかったと思った。目の前に座る彼女が、顔の強張りを緩めてほっとした表情を見せたからだ。
 僕が彼女のその顔を一生忘れないように、彼女ももしかしたら今日の僕を忘れないかもしれないから。
 僕は三分の一ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干し、「顔を洗ってきますね」と腰を上げた。ひかるさんは「うん」と微笑んで、カフェラテを口に含んだ。

 モザイクに覆われた何かが映る鏡の前に、僕は立っている。その何かは、僕が蛇口を捻ろうと腕を上げると、僕の動きに呼応するようにもぞもぞと動く。否、僕の動きに反応しているのではなく、僕の動きを映しているのだ。何故ならその何かは僕自身に他ならないから。
 僕は特別な人間などでは間違ってもないのだけれど、人とは違う変な体質だった。端的に言えば、『死期の近い人間がモザイクがかかったように見える』。これを体質と呼んでいいのかは微妙なところだが、特殊能力とかっこつけるのも変だろう。だって僕は、特別なんかじゃないのだから。それにしてもこの体質がまさか自分にまで発揮されるとは思わなかった。自分の体に黒い影のようなモザイクが張り付いて見えた時の衝撃といったら。思い出したくもない。鏡を見るたびに否応なしに思い出させられるわけだけれど。自分の目で直接見る姿だけは何ともないのが救いだ。自分の手の指すら判別できない状態が常であれば、僕はとっくに気がふれていただろう。
 僕は何の変哲もない人間だから、いつか死ぬ。それは分かり切っていることだし、寂しいと思えど怖くはない。
 でも、だけど、だからって。それがよりにもよって今だなんて、そんなの酷すぎるじゃないか。
 やっと笑ってくれるようになったのだ。やっとお互いに好きになれたのだ。やっと一区切りつけるって、やっと将来のことを考えてくれるって、やっと、やっと。ああ。
「ちくしょう……」
 僕は蛇口を開けて冷水を顔にかける。何度も。何度も。鏡の中で蠢くものを視界に入れないように。何度も。何度も。
 しかし現実は僕をあざ笑うかのように目の前に横たわったままだ。
「……ちくしょう」
 僕の『体質』は正確だ。初めは体の一部を覆うだけだったモザイクが徐々に全身に広がり、人の原型を留めなくなった者は、その後数日のうちに死ぬ。長くて一週間。それが僕に残された時間。
 彼の命日に間に合わないかもしれない。間に合ったとしても、その日のうちに僕は死ぬ。これからの未来に目を向けられるようになったひかるさんを置いて、僕は死ぬのだ。
 そんなのってあるかよ。
 冷たい水が排水溝に吸い込まれていく。僕が今まで見送った人たちみたいに、なすすべなく手のひらをすり抜けて零れ落ちていく。僕はやるせなさに咽ぶ。現状を変えることはできないし、気分も晴れないけれど、今の僕にはそれしかできない。
 ああ神様、どうして。どうして彼女なんだ。どうして僕なんだ。どうして彼女ばかり一人にならなきゃいけないんだ。僕を殺す、ただそれだけならよかった。でも、僕を殺す、それは彼女をまた暗闇に突き落とすことを意味するのだ。隣に眠る誰かの体温をやっと受け入れられるようになった彼女を、また寂しさの海に溺れさせることになる。孤独に涙する体を、あの日のように冷たい雨にさらさせることになる。
 そんなの、ひどい。ひどすぎるじゃないか。
 僕は水を止めてタオルで顔を覆う。死を約束された僕自身の醜い姿を見たくなくて、俯きがちに洗面所を後にする。今は少しでも長くひかるさんの傍にいたかった。それがひかるさんの為にならないと知っていたけど、それでも僕は生きている間にひかるさんの姿を目に焼き付けておきたかった。

 僕が戻ると、ひかるさんは僕のカップを持ってバリスタの前に立っていた。
「ちょっと変な感じになっちゃったから、飲み直しましょ。何にする?」
 少し悩むふりをして、ひかるさんの目を見つめる。その目元が赤く染まっているのが、見間違いでなければいいと思った。
「コーヒーで」
「やっぱりね」
 出来たら持っていくから座ってていいよ、というひかるさんの言葉に甘え、僕は自分の席に着く。一つだけ取り残されていたプチトマトの存在を思い出して、僕はそれをさっさと摘まんで口に運んだ。
 ちょっと歯を食い込ませれば、トマトはあっけなく潰れて中身を飛び出させた。甘いはずの果肉と果汁は、何の味もしなかった。最後に残した好物を満足に味わえない不幸も、僕の体質のせいに違いないのだ。
「はい。冷めるまでちょっと待った方がいいかも」
 ひかるさんが僕の目の前にカップを置いてくれた。黒い海におぼれた氷がひび割れ、水滴が飛び散る。僕は言いつけ通り水面を見つめながらコーヒーが温くなるのを待つことにする。
「にしても、もうだいぶ少なくなったわよねえ」
 ひかるさんの言葉が何を指すのか、僕は数秒遅れて理解する。「ああ」と頷いた。「そうですね、最初はあんなにあったのに」
「本当はジュースがよかったんだけど、あれが当たるなんて。でも、せいじくんがコーヒー飲む人でよかった」
 僕は段ボールに寝転がるコーヒーの袋を頭の中に描き出す。数か月前は袋がぎゅうぎゅうに詰められていたのに、もうあと少しの粉しか残っていない。あれは元々、ひかるさんが会社のボウリング大会で当ててきたものだ。見た目の割に重量があったから、僕がアパートの下まで降りていって部屋まで運んだ。あのときの腰にくる重さ、ひかるさんの申し訳なさそうな顔、今でも鮮明に思い出せる。
 あれから毎日飲み続けてきたコーヒーも、もう終わりが見えてきた。あと何杯飲めるだろう。あと何杯、ひかるさんと一緒に飲めるだろう。
 コーヒーが尽きる前に僕が死ぬことになったら嫌だなあ。ひかるさんに一人で粉を使い切らせることになってしまう。一緒に粉を消費した誰かがいたことを思い出しながら。そんなのは、嫌だなあ。
 じじじ、と蝉の激しい鳴き声が聞こえてくる。次いで、何か叫ぶ子供の声。先ほど通った子供たちが蝉とりでもしているのだろうか。短い命なんだから、あまりいじめないでやってほしい。僕はそんなことを考えて、口元を綻ばせた。
 僕はどうやって死ぬのだろう。強い苦痛を伴うものでもいいから、どうか彼女の記憶に残らない死に方であってほしい。彼女が間違っても自分を責めることのないように。立ち止まり続けてしまわないように。また自棄を起こして冷たい雨に溺れようとしないように。
 僕はひかるさんを、あいしているから。それだけは祈らせてほしい。
 そして、ひかるさんから離れられない僕を、どうか許してほしい。僕はひかるさんを、本当にあいしているのだ。
 ぱきん、と氷がないた。ぬるいコーヒーは一片の甘味すらなく、濃い苦味が舌に残る。喉の奥には酸味が張り付いて、僕は文字通り苦い顔を作る。
 ひかるさんはカフェラテをちびちび飲みながら、残りの朝食に手をつけた。その何気ない所作。蝉が上げる悲鳴。子供たちの歓声。テレビの発する雑音。
 特別じゃない僕の、特別じゃない一日が、今日も始まる。
「ひかるさん」僕は口の中でそっと呟いた。「ごめんなさい」
 だいすきです。
 この一杯が最後の思い出になってほしいのか、そうじゃないのか、もう僕にはそれさえ分からないけれど、今日を精一杯生ききろうと思うこと、それだけは確かなのだ。
 ひかるさんが淹れてくれたコーヒーが、とても、とても美味しくて、僕はまた泣いている。


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