洋子とマナミ

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 事務所を出て細い階段を下りると、外は昇って間もないであろう清潔な日差しにことごとく溢れていて、遠くで鳴る雀のさえずりがぼんやりと耳に届いた。
 真っ白な光は雑多なオフィス街には少々潔癖すぎるくらいで、洋子はその眩しさに眼鏡をずらして目頭をきゅっと押さえる。一瞬感じた目眩が引いていくまで瞬きを繰り返すと、胡乱な瞳孔がようやく光を絞って、見慣れたいつもの街並みを映し出した。
 今日もひどく暑い日になりそうだな、と予感させる雲ひとつない空だったが、頬を緩く滑る風だけはまだ涼やかな風情を残していて、存外心地良い。
 こんな時間だというのに、通りを歩く人影がたまに目に入る。大体はくたびれたサラリーマンで、あとはごく稀にジョギングウエア姿がちらほら。みんなご苦労なことだなと思ったが、ガラス窓に映り込んだ自分の姿も疲れた仕事人そのものだったので、洋子は意気消沈して細長い息を吐いた。座り皺の寄ったパンツスーツ、油っぽくなってぺたりとした前髪、見るからにくすんだ調子の悪い肌。爽やかな早朝に相応しくない疲れた痩せぎすの女が、ガラス越しにこちらを睨みつけていた。
 無理をするとすぐ身体に出るという言葉の意味するところを洋子はここ数年で理解しつつあったが、自分の企画に予算を充ててもらい、それなりに自由に記事にできるようになったのもここ数年のことだ。自分の我を通せるようになった代償に、時間的拘束は厳しくなってきている。いくつかの手順を外注に出すことも可能なのだが、まだ自分ひとりでも何とかできないこともない。そんな微妙なところだ。もう少し仕事が増えたら諦めて分業しようと決心しつつ、洋子は結局踏み切れていなかった。好きでやっている無理だから、どうにも仕方のないことだ。
 思い切り息を吸い込んで凝り固まった背筋を無理やり伸ばす。骨の軋む鈍い音が、身体の奥の方から聞こえた。こんな都会の真っ只中でも、清涼な空気のおかげで肺の中が多少なりともクリアになったような気がする。起き抜けの覚束ない身体がじわじわと覚醒していく感覚があった。
 少し気分を持ち直した洋子は、鞄からスマートフォンを取り出す。電話にはやや非常識な時間帯だったが、躊躇なく通話ボタンをタップした。すぐに繋がることはもうわかっている。
「あ、あたし。おはよ」
『あれ? え、ちょっともうまた徹夜だったの? ってああごめん、おはよう』
 電話口のマナミは予期せぬ連絡に驚いたのか、そんなとってつけたような挨拶をした。彼女はいつも溌剌としていて、それでいてちょっと甘い独特の声色をしている。電話越しでもよく分かるその柔らかくまろい響きに、洋子は無意識に口元を緩めていた。
「いや一応少し寝たんだけどさ、なんかかえって身体が重いっていうか」
『中途半端に寝たからでしょおそれ、〆切間に合った?』
「うんまあ、なんとか。ねえ、始発まだだっけ」
『あー、あと40分くらいかなあ。ようちゃんこっち来る? 今もうみんな上がったから私だけだよ』
「……うん。うん行く」
『うふふ』
「なに」
『んーんなんでも。転ばないでおいでね』
「なにそれ、子どもじゃあるまいし」
『だって寝起きの洋子はねえ、うん、結構ポンコツだからなあ』
 ポンコツとは随分な言い方だなと思ったものの、言い返す言葉が上手く思いつかなかった。脳みそが全然回ってない。結局、子どもみたいにうんと返事をしてから洋子は電話を切る。その素直さが後からじわじわとおかしく思えて、短い息が漏れた。
 マナミはそのチャラチャラした見た目にそぐわず、中身は相当しっかりしている実は賢い女だ。ちょっとした言い回しの巧みさや、会話の中での反応の早さでそれがわかる。自分じゃこうは切り返せないな、と思うことが一緒にいて少なくない洋子である。
 一緒に暮らすようになってからは二人の関係を特に周囲に隠さなくなり、それゆえにちょっとした嫌味や奇異の目を向けられることが未だになくならないのだが、マナミはいつも颯爽とその手の雑音を跳ね除けてくれる。とにかく地頭がいいし、それに負けん気が強い。そういった俊敏さと隠れた獰猛さが、自分と大きく異なるところだと洋子は分析している。
 ビル街をすり抜けて国道に出ると、大型トラックが何台も連なって目の前を過ぎていった。いつもは人だかりと大型バスで埋め尽くされている喧噪のバスターミナルが、嘘のように閑散としているのが妙に不思議だ。まだ目覚める前の街中を坦々と歩き、洋子は小さな路地に入る。
 妙な臭気を漂わせているホームレスが屯するガード下は、正直あまり得意ではないが、このルートが一番の近道なので文句は言えない。年季の入った足元のタイルの模様だけをじっと見据えて早足で駆け抜けていくと、やがて駅の向こう側に出る。
 洋子の職場とマナミの職場は、この大きな駅のちょうど反対側に位置している。

 *

 夜の繁華街において、水着姿の女の子同士がボクシングを披露する店、を端的になんと呼んだものか洋子にはよく分からないものの、とにかくマナミはそういった店で労働に身をやつしている。
 立地も立地なので一見すると足を踏み入れにくい風俗店なのだが、意外にも店内はそれほど色めいた匂いがしない。洋子は学生時代に訪れたタイの郊外で見かけた、ムエタイの小さなスタジアムをいつも連想している。
 そこは無秩序で混沌としていて、暑さに耐えかねた観客が片手間に瓶ビールを傾けるような気安さに溢れている。けれどリングの上だけは、それとはまた別の篭った熱気を孕んでいて、美しい身体が全力でぶつかり合って汗を滴らせているのだ。日常の地続きにある雑多でほんの少し猥雑な空気が、ひっそりと漂っている。そんなちょっとオリエンタルでアンダーグラウンドな店が、マナミの勤務先である。
 駅の反対側に出ると、すぐそこに喫煙所がある。目にした瞬間強烈に煙草が吸いたいと思ったが、洋子は無理やり振り切ってそのまま進んだ。煙草ならマナミの店で吸えばいい。それに、持て余した口元にスタンプを押すみたいなやり方で、マナミが唇をくっつけてくるいつものキスの方が今はずっと恋しかった。
 駅の向こう側とこちら側では、流れる空気がかなり違っている。それまで漂っていた朝の清潔な空気とは打って変わって、こちら側ときたら過ぎ去った夜にしがみつく人達が、ふらふらと覚束ない足取りを見せているような按配だ。饐えた臭いすら漂っていそうな大通りを抜けていくと、貧相な体格にまるで似合わないスーツを纏ったホストと目が合った。ヤニの染みついた前歯を見せつけてくるその男を睨みつけながら、洋子は近くのコンビニに入る。
 特に理由はなかった。なんとなく思いついて、ホットコーヒーをふたつ買う。せっかくならもっと上等なコーヒーを飲みたいとも思うのだが、生憎この時間ではコンビニ以外に選択肢はない。
 夏場でも頑なにホットコーヒーを好む洋子に、家ではいつもマナミが合わせている。どちらかと言うと味に煩いのは洋子の方で、それゆえコーヒーを淹れるのは必然的に彼女の役割だ。そんなわけだから、この時もアイスコーヒーは全く選択肢になかった。そうか、マナミは冷たい方が良かったかも、と洋子は店を出て厳しい日差しをまともに受けてからようやく思い至ったがもう遅い。まあ、この程度のことで嫌味を言うマナミではないけれども。
 こういう日常の些事を鑑みても、マナミに甘えてるなと感じることが結構多い。とにかく彼女は、洋子を甘やかすことに関しては天才的に上手かった。
 マナミを象徴する豊かな長い髪は、いつも綺麗な金色に染め上げられている。もちろん純粋な日本人だから放っておくとそのうちに根元が黒々としてくるのだが、彼女はこの金色と黒の入り混じることにほとんど強迫観念めいた嫌悪感を抱いているらしかった。
「ようちゃーん、髪やって」
 汚れてもいい一番古いジャージの上から、真ん中に穴を開けた40Lのゴミ袋をすっぽりと被る。歩く度にシャカシャカと大きな音がするそんな格好で、マナミは洋子に髪を染めてくれと言う。少なくとも月に一度は、このお化けの仮装みたいなスタイルでシャカシャカさせながらブリーチ剤を手渡してくるので、洋子はもうすっかり専門の美容師にでもなったような心持ちで、長い髪を要領良くブロッキングして色を抜いていく。
「ねえ、こんなに頻繁に色抜いてたらさ、頭皮死んじゃわない?」
「でも、だって、なんか手抜きの象徴みたいに思えてほんと嫌になるんだもん。ない? そういう自分じゃどうにもならないこだわりみたいなの」
「ああ、あるね。ヒールのゴム底が擦り減ってるのとか萎える。カンカン音立てて歩いてる奴とかもう見るのもやだ」
「ようちゃんあれほんと嫌いだよねえ」
「え、そんな顔に出てる?」
「出てる出てる、うわーって顔してるよ。えー頭皮そんなやばい?」
「……ん、いやまあ、だいぶ元気そうだけど」
 洋子は目の前のつむじに鼻先をくっつけてみる。頻繁に痛めつけられてるはずの頭皮は透けるように白くつるつるで、頑なな黒さを固辞した髪がびっしりと緻密に生え揃っていた。マナミの髪は、一見すると優雅な女の佇まいなのに、よく見るときかん坊な男の子みたいに強情だ。
「ふふ、でしょお、私の身体ってほんと頑丈なんだよなあ」
「あー確かに、風邪とか全然ひかないね」
「ね。洋子のことあんなべったべたに看病してるのに、うつった試しがないよねえ」
「言い方」
 こうやってパートナーのなんでもないお手入れを手伝うことは、とても気持ちが良いし充足感に溢れている。どんどん手つきがこなれてきて、そのうちに洋子の方からそろそろ染めたらどう? なんて言ってみたりもしてしまう。そんな時に洋子はふと思うのだ。マナミはこうして甘えてくるけど、これは甘えると同時に甘えさせてもくれる大変高等なテクニックなのでは? と。
 大人になってそれなりの分別を得はしたものの、子供の頃に想像した大人には全然全くほど遠い。あの頃思い描いた自分は思慮深くて、分相応で、もっと聡いはずだったのに、今や一見してそうとは看破できないところが余計に厄介な、一級品の困ったちゃんになってしまった気がする。
 そんなタチの悪い洋子を解きほぐすことに、マナミは余りにも長けている。毒か薬かと問われれば確実に前者だ。でも同時に救いでもある。それは、日常を彩るに欠かせない唯一無二の半身としての。

 *

 人ひとりがようやく通れるくらいの急な下り階段にはちゃんと金属製の手すりがついているのだが、なんだか妙にべたべたしているので洋子は触らないことを心に誓っている。
 小さな受付ブースを越えると、そこには使い込まれたボクシングリングが中央に聳えるホールが広がっている。リングを囲む形で色々な種類の椅子が不規則に並び、そこだけ見ればちょっとしたバーのような洒脱さもある。ただ残念ながら天井の低さが致命的で、一番印象として近いのは場末のショーパブかも知れない。営業中は天井のライトがその極彩色で舞台をけばけばしく照らしつけるが、今は全体的に薄暗く、まるで祭りの後のような、喧騒の過ぎ去った寂寞とした印象が強かった。
 リングの向こう側には大きなバーカウンターが備え付けられている。その手前のソファーに、ノートPC片手に真剣な面持ちをしたマナミの姿を見つけた。洋子に気づいた彼女は、ふと表情を緩める。
「あー、眼鏡だ」
「もうコンタクト入んないって」
 自分の眼鏡姿をあまり好きではない洋子は、外出時は頑なにコンタクトに拘っている。なので本当は今も若干不本意ではあったが、ほぼ徹夜明けの不調な状態ではやむを得なかった。そういう洋子の微妙な葛藤をもうすっかりお見通しのマナミはにやにやと薄い笑みを浮かべているが、何故かそれがちっとも不快ではない。洋子はわざと口元を歪めて誤魔化した。
「はいこれ」
「あ、コーヒー? 嬉しいなあもう」
 コーヒーを受け取るのとは逆の手がするりと洋子の背中に回って、流れるような仕草でマナミはちょっと乾いた唇をふにふにと押し付けてきた。背丈はマナミの方がやや低いから、キスの時はほんの少し背伸びをしている。その凛とすましたマナミの背中の真ん中の窪みを、指で丹念に確かめながら支えるのがいつものやり方だった。
「……おはよう、おつかれさまだったねえ」
「マナミもね。ねえ、ていうかなんでひとり? マネージャーもう帰ったの?」
「ん? そもそも最近来てないよ、ほとんど全部こっち任せだもん」
「ええ、んな無責任な……」
「まあ好きにできるから、私はむしろ楽だけどねえ。ちゃんと売上げ伸ばしてるから文句も言われてないし」
「ああうん。そういうところ、なんていうかそつが無いよねマナミは」
 ソファーに並んで、洋子はマナミの肩にくたりと凭れ掛かる。
 格闘技で鍛えられたマナミの身体には、正しい骨格に正しい筋肉が備わったお手本のような強さが滲み出ている。セクシーでタフで、いつも割とあられもない姿をしているにも関わらず、露悪的な側面は感じられずむしろヘルシーな印象が強い。頑丈な上半身はちょっと前肩なので、例えばカーディガンを羽織った後姿なんかが、昔の洋画に出てくる女優みたいにとても絵になる女だ。食べても食べても太らない線の細い洋子には、まるで手の届かない領域なので実はとても羨ましく思っている。ベッドの中で、そういうふたりの違いと訥々とあてどなく語り合って、そして互い違いに触れ合うのはとても心地良かった。
「美味しいなあ」
 ちまちまとコーヒーを啜るマナミが、ふと声を零した。
「でもさ、普通の味だよね、コンビニのコーヒーって。世の中のコーヒーの平均を目指しましたって感じがする」
「えーいいじゃない。私は好きだよ、普通なのがいい」
「そういうもの?」
「そういうものなの」
 やたら確信的に頷くマナミの体温が少しずつ高まっていく。くっつけあった肌から伝わる熱が、お互いの身体を行ったり来たりするうちに、やがて明確な形を帯びてくる。
 ふたりとも身体は疲弊しているのに、ずっと奥の方で小さな火が赤々と灯る気配がする。それはまだ欲望にもなりきれないほど僅かなのに、確かに熱を生み出し身体中に熱い血を巡らせていく。その感覚がいつも癖になるほど気持ち良いのだ。横目でマナミをそっと窺うと、彼女もまたこちらをちらりと見やった。
「ねえ、今何考えてるか当ててあげよっか?」
「……ばか」
「まだ何も言ってないでしょお」
「だってその顔」
 ねえねえどんな顔? とマナミはアーモンド形の瞳を綺麗に細めて微笑んだ。洋子が答えに窮していると、手にしているコーヒーを奪い取って傍らの机に置き、身体ごとぶつかるようにダイブしてくる。力いっぱい容赦なく圧し掛かるマナミにぐいぐいと押しつぶされながら、気づけば洋子は声をあげて笑っていた。さっきまでの濃密な空気もすっかり消え去って、あどけない子どもの明るさばかりが残っている。べったりと張り付くような疲労も、瞳の奥にわだかまっている眠気も、すっと影を潜めていくようだった。
 また、いたずらな子どもみたいなキスが降り注いでくる。いつものように受け止めたそれは、けれどいつもと違ってコーヒーの後味が舌先にそろりと残っていて、ほんの少しだけほろ苦い。


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