愛しい人と共に季節は巡る

AXIA



 アンティークとも呼べるほどに古い手挽きコーヒーミルはいつもの調子でガリガリ音を立てていた。
 ガスコンロではシューシューと音を立てて白い蒸気を吐き出しているケトルがまだかまだかとカタカタ蓋を鳴らす。

「さあ、挽けたよ」
「こちらも沸きましたわ」

 ネルフィルターに一度お湯を通してから、できるだけ固く絞って水気を切り、しわを伸ばしてセットする。
 ネルフィルターが冷えないうちに、なるべく素早く。二人分のコーヒーの粉をネルフィルターへ入れ、まず少量のお湯を。
 珈琲の粉全体にまんべんなく含ませるように静かに注ぎ、20秒くらいそのまま置いて蒸らしていく。
 この「蒸らし」で焦ってはいけないのだよ。粉にお湯をなじませ、おいしい成分を抽出しやすくする大切な工程のためだからね、と優しい口調で老紳士は微笑んだ。
 サーバーの目盛りを目安にしながら杯数分のお湯を、ハンドドリップと同様に中心から「の」の字を描くように注いでいく。
 3回くらいに分け注いで表面にできた泡の山が沈んでしまわないうちに次のお湯を注ぐように慌てずに。ネルフィルターには直接お湯をかけないように注意しながら注ぐのだ。
 抽出液がサーバーに落ちきったら抽出完了である。

「今日も、良い香りね」
「だろう?」

 老紳士は自信満々で妻に笑いかけた。
 これが、この二人が五十年もの間、毎朝続けて来た習慣であり楽しみであった。
 夜明け前に起き出しては必ず二人分の珈琲を入れ、ウットデッキや窓辺に座り、外の風景を眺めながら過ごす贅沢をこの老夫婦はとても大事にしていた。
 晴れの日は光が広がる様を眺め、雨の日は雨音に耳を澄まし、風の日はその歌を聞きながら過ごしてきた。
 今日も薄紫色の夜明けが二人の前に広がってゆくのを眺めながら、互いに微笑み合ってはゆったりとした時間を過ごす。

「いつまでも、こうしていましょうね、あなた」
「そうだな。約束しよう」

 少し、しんみりした空気を笑みで吹き飛ばすかのように満面の笑みで老婦人は鈴の音のような声で話しかける。
 うん、うん、と。老紳士は頷きながら目尻の皺を緩ませた。
 朝日が昇るまで窓辺に二人で微笑み合う。それがこの老夫婦の最大の幸せだ。

「さて、おまえ。片付けは私がしようか」
「すみませんねぇ」

 そう言うと、老紳士は妻をリビングへと車椅子で押して行く。だんだんと歩けなくなってもう10年、今は完全に車椅子での生活だった。
 老婦人はそれを悲観した事は一度もない。それは老紳士がいつもそばで笑っていてくれるからだと思っていた。
 愛しい人が側にいる幸せを誰よりも感じられているかのようで、世界一の幸せ者だと思っているのだ。
 老紳士も妻が歩けなくなっても、嫌だと思ったことはない。
 誰よりも愛する人と長く一緒にいられる喜びを知っているからだ。
 二人の朝はいつも優しい愛で、包まれていた。
 夜明けのひとときに二人で過ごすひとときを思えば、この先に何があっても二人なら大丈夫だと、そう思い合える大事な時間を、これからも過ごしていくのだ。

 ……例えそれが近い日に消えようとも、悲観したりはしない。
 二人で過ごしてきた尊さを胸にたくさん持っているから、老夫婦はいつまでも、どこまでも一緒だと互いに想い合っていた。
 その時が来ても彼らの迎える朝はやはり、愛で溢れた優しいものなのだ。


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