朝の来ない部屋

宮崎笑子



 この部屋に朝が来ることはない。時間になれば、うっすらとシーリングライトが点灯して、それで俺の少女は目を覚ます。
 タイマーでライトがフェイドインしてくる前に、目が覚めた。となりでレイラは未だ薄い瞼を閉じ、眠りを貪っている。規則正しい呼吸が、間接照明が照らす部屋を静かに満たしていく。
 眠っているレイラの頬にキスを落とす。十八歳になろうというのに、どこかあどけなさを残したいたいけな丸い頬からは、すっかり熱も引いた様子だった。
 彼女が体調を崩すというイレギュラーを起こしたとき、俺はいつも仕方なく、女医を手配する。口が堅く、見たものを見なかったことにしてくれる、そしてその対価に法外な医療費を請求してくる女医を。インフルエンザに罹ったようです、という診断結果に、俺とモニカはお互いを指差して、やれ菌を持って来たのはおまえだろう、いいやあなたに違いない、と罪をなすりつけ合った。
 それを横目に、レイラは薬を飲んでさっさと横になっていた。身体がつらいのだろう。そして、それを見て俺たちは言い争いをやめ、静かにすることにした。
 昨晩、寒気に震えるレイラを抱きしめて眠りにつこうとすると、彼女は力の入らない腕を俺の胸に突っ張ってそれを一度は拒否した。
「うつるわ」
 眉を上げる。そんなことを言って、ひとりで眠るのは心細いだろう。そう説き伏せて無理やりに横たわる。あいにく、インフルエンザなんかにやられるほどやわな身体ではない。
「わたしがやわだって言いたいの」
 言葉のあやには違いないが、レイラがやわなのも事実ではある。俺が、そうしたのだから。
 免疫力を高める生活をさせていない。空調もいつも一定で、清潔で外界との接触が俺かモニカの来訪しかなく、極端に甘やかされた身体。やわでないと、誰が言えるだろう。
 散々俺に抵抗を示していたレイラだが、身も心も弱っていてどちらも休息を欲していたのだろう、ぐちぐちと言いながらも眠りに落ちた。ハニーブロンドの髪を撫でる。汗でうっすら湿っている。朝起きたら風呂に入れるか、濡らしたタオルで身体を拭いてあげるべきだ、と思いながら、俺も眠りについた。
 片肘をついて身体を横たえ、レイラの様子をじっと見つめる。すっかり穏やかな寝息。体調はだいぶいいらしい。
 俺はいつもこわい。
 レイラが体調を崩すたび、このまま悪化して帰らぬ人になるのではと思ってしまう。心配しすぎだ、風邪くらいで。モニカはそう一笑に付すものの、俺は心配で、こわくてこわくてたまらないのだ。
 昨晩だって、もしも朝目が覚めてレイラが息をしていなかったら、ということをちらりとも想像しなかったと言ったら嘘になる。
 シーリングライトが、うっすらと明かりをともした。何段階かに分けて点灯するようになっていて、今は第一段階、夜明けの明るさだ。これから、一時間かけて、この部屋の夜が明ける仕組みである。
 間接照明を消す。薄明りに照らされたレイラの額に手を滑らせる。髪の毛が乾いた汗で貼りついていたようで、少し抵抗があった。
 第二段階の明るさのとき、レイラの瞼がふと開いた。
「おはよう、お嬢さん」
「……ん……、おはよう……」
 寝惚けた様子で、ぎゅっと俺のシャツを握る。甘えたしぐさに応えるように、手首を取っててのひらにくちづけた。
「調子はどう? 熱は下がったようだけど」
「……ええ、……だいぶいいわ……」
 声が少しかすれていて、まだ本調子ではないことがうかがえる。髪を撫で、鼻の頭にキスをする。
「……水が、飲みたい……」
「オーケー、水だね。あと、薬も飲もうか」
 こくりと頷いたのを見届けて、指紋認証の扉を開けて部屋を出る。外にある簡素なキッチンで、水と白湯とどちらがいいのか少し悩んで、結局自分の分のコーヒーを淹れるときの熱湯を少し冷ましてぬるま湯にして持っていくことにした。
 パスコードを入力して部屋に戻ると、レイラはベッドの上で上半身を起こしていた。
「起き上がって大丈夫なの?」
「ええ、熱はすっかり引いたみたい」
「起き抜けに水はつらいかと思って、ぬるま湯を持ってきたけど、飲めそう?」
 頷いて、手を伸ばす。カップを渡して、俺はベッドのふちに腰掛けてコーヒーに口をつける。
「ゆっくり、焦らずに飲むんだよ」
 カップを傾けるレイラの肩を撫でながら、薬も手渡す。それも飲み終えて、レイラは熱は引いたようだと言ったがやはりつらいのか、すぐに横になった。
「まだつらい?」
「……そうね、だるい」
「子守唄を?」
「歌えるの?」
「ピーター・ラビットの一節くらいなら」
 おどけて言うと、うっすらと笑った。まるで天使のような笑みに、たまらず手が伸びる。頬をてのひらで包んでくすぐると、人形のような目を閉じて、言う。
「ひんやりして気持ちいい」
「やっぱりまだ熱があるんじゃない?」
 そうかも。囁き、ベビーブルーの瞳が再び姿を現した。何度か細かくまばたきをして、ブラウンの睫毛が頬に落とす影を知りもしないで、彼女はぽつりと呟いた。
「……、……」
「え?」
 聞き取れずに、え、と返す。彼女は、ゆっくりと口を開き、ほんのわずかばかり声を張った。
「ブラックコーヒーの匂いがするとね、いつもパパを思い出すわ」
「……」
「わたしは幼くて、コーヒーをブラックで飲むなんて正気の沙汰じゃないと思っていた。段ボールを噛むような味がするって思っていた。でも、大きくなった今もそう思っているのよ。だからわたし、ジェイミーは今段ボールを噛んでいるって思っているの」
 とりとめのない昔話なんか聞きたくなかった。俺が引き剥がした外の世界の思い出なんか、聞きたくなかった。
「ジェイミーが嫌がると思って今まで言えなかったけど……」
「……」
 心のうちを読み取られた、と思った。けれど、その動揺を顔にはすんでのところで出さずに飲み込む。
「……でも、最近は、パパを思い出すよりも、ジェイミーが段ボールを齧っているのを想像して笑ってしまうわ」
 言葉通り、くすりと笑み、眉を下げる。
 不名誉な想像をされていることはさておき、レイラの態度がなついても心が一向になびかないのもさておき、それでも俺はレイラのそういった記憶を支配していけることに、ひたすらに胸を熱くさせる。
 匂いと記憶は密接に結びついていると聞く。いつかレイラがここを出て――そんな日は来ない、来させないけれど――コーヒーの香りを嗅いだとき、父親でなく俺のことを思い出してくれたら、と思う。
「……俺は、ハムスターか何かか?」
「怒った? 可愛いわよ」
 かろうじてそんな憎まれ口を叩いて、背中を折り曲げて、寝ているレイラに上体を倒す。可憐な唇を塞ぎ、何度かついばんでから離し、吐息が混じる近さでそっと、歌うように囁いた。
「……昔むかしあるところに、四匹の子ウサギがいました……」
 何度も何度も読んでいるうちに覚えてしまったその冒頭を聞いて、レイラはそっと目を閉じる。
 どうか、彼女の瞳に二度と映らない朝陽を、せめて夢の中では。


←BackHome