君と僕の物語

カツサンド



―1―
――もう夜だ。寝支度をしよう。

 蒸し暑い夜。高校生である牡丹は夏休みの真っ最中だ。
 半分程度しか手が付けられていないノートを閉じ、シャープペンシルを置いて彼はベッドに向かおうとする。
 
「……ん? 誰だろう、こんな時間に」
 ベッドに放り投げられていた黒いスマホに、着信履歴を示す緑色のランプがついていたのを見て彼はつぶやく。
 この時間、彼の友人たちは宿題やゲームに精を出しているころなので、あまり着信は入らないはずなのだ。

「もしかして、彼女かな?」
 着信履歴を開いてみると、つい十分ほど前に電話があったことを示していた。
 相手は……。

「『カスミ』……、やっぱりね」
 牡丹はため息を一つつくとスマホを操作してカスミへ電話をかける。
 一コール、二コール、三コール……。
 
『やっほー! ご機嫌どうー!?』
 電話がつながるや否や、元気の良すぎる声がスマホから流れる。
 牡丹は少しビクッとしながらも、すぐに落ち着きを取り戻して話し始めた。

「ご機嫌どう? じゃないよ。どうしたの? こんな夜遅くに」
『んー? なんか、会いたくなってね』
「えっ!?」
 驚きの声をあげる牡丹。
 しかし、何事もなかったようにカスミは話をつづける。
『いいじゃん! だって、夏休みだよ?』
「といっても……、お母さんが許さないと思うけど……」
 控えめに、しかし諦めてほしそうに牡丹はそう返す。

『あー、ボタンのお母さんには許可もらってるよー』
 
 しかし、牡丹の期待は淡く打ち砕かれた。
 香澄の言葉の後、目を丸くして後ろにある白いベッドにあおむけに倒れこむ牡丹。
 スマホが手から零れ落ちてベッドに沈む。

『おーい? ボタンー?』
 スマホから聞こえてくる香澄の声。
 その声に答える気力もなく、牡丹は右腕で両目を隠し、力なき声でこうつぶやいた。

「……今日は厄日だ」

 それから十分ほど経過した。
「やっほー! 来たよー!」
 暗闇の中、サイドテールをゆらしながら、リュックサックを背負ってドアの前でぴょんぴょんと飛び跳ねる少女、『香澄』の姿がそこにあった。
「カスミ……声が大きいって……」
 二階の窓から顔を出し、あまり大きくない声でそう返す牡丹。
「えー!? なにー!? きーこーえーなーいー!」
「こ、声大きいって!」
 香澄のわざとらしい、大きな高い声に申し訳なさそうに返した牡丹。
 その瞬間、ガチャリとドアが開いて四十代くらいの女性が姿を現した。
 
「あ、ボタンのお母さん!」
「あらあら、カスミちゃんじゃないの。遅かったから心配したわ」
 牡丹の母親がほんわりとした、柔らかい声でそう問いかける。

「ちょっと、お母さん!」
 牡丹が二階から何か言う前に香澄は元気良く、右手を上げてこういった。

「ごめんなさい、ボタンが強情だったんです!」
 その言葉を聞いた牡丹の母親は、頬に右手を当ててにんまり笑ったと思うと、牡丹に向かってこういった。

「牡丹ー! ガールフレンドの香澄ちゃんが会いに来たわよー! 観念しなさい!」
 
 おちょくるように言う母親にため息を一つつき、「ガールフレンドじゃないよ……」と返した牡丹。
 
 その後、香澄が牡丹の部屋に上がるまでにそれほど時間は要さなかった。

―2―

「ボタンー! 遊びに来たよー!」
「はいはい……」
 茶色のサイドテールを揺らしながら飛び跳ねる香澄。
 牡丹は黒いストレートヘアーに右手を当てると首を横に振り、ため息をついた。

「今、夜中一時だよ? なんでこんな時間に……」
「会いたかったから!」
 牡丹の問いに無い胸を張って元気よく答える香澄。
 彼女の言葉に牡丹は一瞬くらりと倒れかける。

「そ、そんなことで? 明日でもいいじゃん……」
「やだ! 今会いたかったの!」
「えぇ……」
 苦笑いする牡丹を知ってか知らずか、香澄は嬉しそうに背負っていたリュックサックから数個のボードゲームやトランプを取り出してこう言った。

「遊ぼう! 朝まで!」

 それから二時間ほど経過した。
 前半のうちこそ香澄のハイテンションになんとかついていった牡丹であったが、時間がたつにつれテンションも下がっていき、うつらうつらと頭を揺らしていた。
 
「はーい、あたしの勝ち―!」
 そんな牡丹とは対称的に、嬉しそうにトランプのカードを地面に置く香澄。

「あたしの5勝目ー! 次は何する?」
「……」
 牡丹は眠気に耐えられないようで、目をこすりながら必死に香澄の顔を見ようとしていた。

「……カスミ、寝ようよ。眠いよ……」
「ちょっとー! 寝るには早いよー!」
 彼の寝ぼけ眼の頼みも、彼女の元気な声にかき消されてしまった。

「もう深夜三時だよ? 寝ようよ……」
「夜はまだ長いよ!」
「でも……」
 もう限界といわんばかりに体が無意識に揺れている牡丹。
 そんな彼を見た香澄は、少し悩んだ後に手をポンとたたくと、彼の両肩を掴んで寝ぼけ眼を直視してこういった。

「今日、日の出見ようよ! 日の出!」

「……日の出?」
 朦朧とした意識の中、牡丹はそう答える。
「うん! きっとすっごい楽しいよ! あたし、ボタンと一緒に行きたい!」
「えぇ……」
 根拠のない自信に圧倒される牡丹。
 断る口実を探そうとしていた彼に、香澄はリュックサックから銀色の水筒を取り出した。

「……これは?」
「眠気覚まし!」
「……」
 苦虫を潰したような顔をして水筒を見る牡丹。
 香澄は彼に、水筒の蓋兼コップを取り外して中から液体を注いだ。
 
 その液体は真っ黒で、とても冷えている。

「これ、もしかしなくても……」
「ん? アイスコーヒーだよ?」
 香澄の言葉に頭を抱える牡丹。
 
「あれ? ボタンって、もしかしてまだ……」
「そうだよ……僕、まだコーヒー苦手なんだよ……。カスミも知ってるでしょ?」
「うん! でも、ちょっとならヘーキヘーキ!」
「……」
「砂糖入れてきたから!」
 香澄がそう言うと、牡丹は「砂糖が入ってるなら……」と彼女のコップを受け取り、そのまま口をつけた。

「!!」
 飲んだ直後、彼の顔色が急変した。
 一瞬青ざめたのだ。

「あれ? 苦かった?」
 首をかしげて悪気がなさそうに聞く香澄。
 そんな彼女に何も言えずに、コップを無言で置く牡丹。

「……よし、僕はもう寝ます」
 フラフラとベッドへ向かおうとする彼の左腕を香澄はガシッとつかみ、もう片方の手で置いていたコップのコーヒーを飲みほしてこう言い切った。

「さっ、行くよ! 眠気覚めたでしょ!」

「……僕の話、聞いてた?」
「はい、行くよ!」
 牡丹の話などどこ吹く風。
 香澄はずるずると彼の腕を引っ張りながら水筒を持って部屋を出た。


―3―

「夜といっても今日は蒸し暑いねー。半袖でよかったー」
 満天の星空。その下で香澄は歩く。
 両手を水平に上げ、くるくると回りながら笑顔で歩く彼女。
 さながら、夜空をステージにして踊るバレエのように。

 彼女の水玉の半袖が時折街灯に照らされて淡く光る。
 その様子をあきれつつ、諦めつつ見ていたのは三歩後ろにいた牡丹だ。
 彼は黒い半袖に白い半ズボンを穿き、ため息交じりに夏の夜を歩いていた。

「カスミー、そんなにはしゃいでいるとこけるよー?」
「大丈夫大丈夫!」
 どこからその余裕が出るのか。
 その言葉をぐっと飲みこみ、香澄についていく牡丹。

「それにしてもさー、きれいだよね、夏の夜空って」
 突然立ち止まり、夜空を見上げてそうつぶやく香澄。
「だね。僕も好きだよ、夜空」
 香澄に歩み寄りながらそう返す牡丹。
 その言葉を聞いてうんうんと頷きながら、笑顔で二歩先を歩く香澄。
 すると、彼女は何かを思い立ったように走り出し、そして、

「ちょ、ちょっとカスミ! 危ないよ!」
 猫のようにひらりと塀の上に登ったのだ。

「大丈夫大丈夫! あたし、こう見えても体軽いから!」
「そういう事じゃなくて!」
 不安そうに見つめる牡丹などどこ吹く風。
 彼女は両手を水平に広げ、そして、明るい声でこう言い始めた。

「さぁて、カスミ選手! この塀を落ちずに歩ければファイナルステージ合格です!」
「何の実況なのさ、それ! 危ないから早く降りてきて!」
「大丈夫大丈夫……わぁっ!」

 急にぐらりと体勢を崩し、塀の右側に倒れこむ香澄。
「!!」
 牡丹はとっさに彼女の下まで移動し、そして落ちてくる彼女をうまく抱えた。
 
 牡丹と目が合う香澄。
 彼女はにっこり笑うと、腕をぐーっと伸ばしてボタンにこう言った。

「ふー、危ない危ない。ボタンがいなかったらどうなってたんだろー……」
「どうなってたんだろー じゃないよ!」

 いつにもなく口調が強くなる牡丹。
「カスミ……僕の大切な人になにかあったら……僕は、僕は……」
「えっ、それって……」
「……僕にとって、カスミ以上の親友は居ないんだ……」
 泣き出しそうな牡丹の頭を、香澄は頬を膨らませながらぺしっと一度叩き、そのままひょいと立ち上がり、振り向いてこういった。

「大丈夫、あたし、身が軽いから。
 それに……牡丹なら、受け止めてくれると信じてたし!」

「えっ……それってどういう……」
 涙目で彼女の方を見る牡丹。しかし、香澄は何も答えず、ただ笑っただけだ。

「さっ、行こ! 早くいかないと夜が明けちゃうよ!」
 くるりと背を向けた彼女は、両手を広げて走り出した。
「ま、待ってよぉ!」
 涙を拭いた彼も、彼女の後を追った。

 それから三十分ほどたち、登山口に着いた二人。
 市街地から離れているというのもあり、周りには人影や街灯がなかった。

「さ、ボタン! 登るよ!」
「えー……こんな真っ暗な山道を?」
「大丈夫、あたし、夜行性だから!」
「僕は夜行性じゃない……」
 牡丹のあくび交じりの言葉を無視して、香澄は彼の手を握って登山道を進み始めた。

「ねぇ……帰ろうよぉ……僕、眠いよ……」
「何言ってるの! 一緒に朝日を見ようよ!」
 意地でも帰りたがる牡丹の右手をつかんでずんずんと登っていく香澄。
 彼女の眼はまっすぐで、一寸先は闇に包まれている山道でも迷わずに歩いていた。

「なんでそんなに朝日を見たいの……? 陽が登ってからでもいいじゃん……」
「それは……」
 牡丹の何気ない一言に、言葉を詰まらせる香澄。
 彼女は言葉を詰まらせながら、彼に見えないように頬を赤く染める。
 
「どうしたの? カスミ?」
「な……なんでもない!」
 顔をぶんぶんと横に振り、何かを振り払うようにそう言い切った彼女は、牡丹の手を握ってずんずんと山道を力強く歩いた。

―4―
 
 山道を進み始めてから、一時間ほど経過した。
 二人ともすでにへとへとで、顔にも疲労の色が濃くなってる。

「ねぇ……カスミ、あとどのくらいだっけ」
「わかんない……」
 声にも元気はなく、足取りも重い二人。
 
 下を向いていた香澄がゆっくりと顔を上げた時だった。
「あっ!」
 驚きの声を上げる彼女。
「どうしたのさ……?」
 ぜぇぜぇと息を切らせながら牡丹がたずねると、香澄は彼の方を振り向いて興奮気味にこう言った。
「ボタン! 頂上だよ、頂上!」
 香澄が見上げた先には看板があり、確かに『左 250M 山頂』と書かれていた。

「……もう少しだね、カスミ」
「うん! 早く登ろう!」
 急に元気を取り戻した彼女は、牡丹の手を掴んで駆け足気味に登りだす。
「ちょっと、カスミ……。走ると危ないよ」
 あきれながらそう言う牡丹の顔は笑顔だった。


「ついったー!」
 手を引いたまま山道を登りきった香澄は、嬉しそうに両手を広げて胸をそらせる。
 頂上には誰もおらず、二人の目の前にはベンチと柵があり、その下には市街地が広がっていた。

「どうにかついたね……」
 ぜぇぜぇと息を切らしながら少しジメッとした夜風を浴びる牡丹。
「ボタン! あそこにベンチがあるよ、座ろ!」
 目をキラキラと輝かせながら、横長の木製ベンチを指さす彼女。
 牡丹は息を整えた後に「いいよ」と答え、彼女の横を歩いた。

「それにしても、夜の街は静かだね。まるで、僕たちだけしか人類がいないみたいだ」
 横に並んで座り、そうつぶやく牡丹。
 彼の視線の先には、ポツリポツリと明かりがともり始めた暗闇が広がっていた。
「そうだね……」
 そう返した後、香澄はふわぁと大きなあくびをした。

「……カスミ、もしかして」
「んにゅ……」
 牡丹が横を振り向くと、香澄はそのままこてんと彼に寄りかかってすうすうと小さな寝息を立て始める。
 そんな彼女の寝顔を見ながら、牡丹は右手で彼女のひたいを撫でる。

「まったく……。さっきは、あんなに夜行性だっていってたのに……」
 嬉しそうにそうつぶやく牡丹。
 彼の左手にはアイスコーヒーの水筒が。

「飲んで、みようかな?」
 水筒に視線を落とした後に考えてそうつぶやく牡丹。
 水筒の蓋兼コップを外し、ほんの少しだけコーヒーを入れる彼。

「……いただきます」
 来るであろう苦みをこらえようと、ちょびっと口をつける。

 直後、彼は目を丸くしてこうつぶやいた。

「おいしい……」
 顔の色を変えることなくコーヒーを飲み干した牡丹。
 彼は空っぽになったコップを横に置き、眠っている香澄の顔を見ながら囁くようにこうつぶやいた。

「……ありがとう、カスミ。コーヒーを入れてくれて」

 その後、ちびちびと飲みながら香澄の寝顔を見ていた牡丹。

 ……一時間ほどたっただろうか。
 急に街が明かりを取り戻し始めた。

「わぁ……!」
 街の奥から、太陽が昇り始めたのだ。
「カスミ! 起きて! 日の出だよ!」
 彼女の肩を揺さぶりそう叫ぶ牡丹。
「……んにゅ、日の出……?」
 香澄は一回大きくあくびをしたかと思うと、目をこすって街を見る。

「……わぁ! 日の出、日の出だ!」

 直後、目を丸くして感嘆の声をあげる香澄。
 その様子はとても寝起きとは思えないほどエネルギッシュだ。

「凄いね、ボタン!」
「うん! カスミ!」
 興奮気味にそういう二人。
 すると、牡丹は何かを思い出したように手を一度ポンと叩くと、横に置いていた水筒からコーヒーを注ぎ、香澄に渡した。

「はい、カスミ! 眠気覚ましに!」
 その言葉と共に。

「……ありがと」
 ぽかんとしながらも微笑んで受け取る香澄。
 彼女にコーヒーを渡した牡丹はそのまま太陽の光に包まれた街を見る。

「きれいだね、カスミ」
「……うん、ボタン」
「見られてよかったね、カスミ」
「……」
 彼を見つめながら言葉を詰まらせる彼女。
 彼女は何かを飲み込んだ後、ゆっくりと、落ち着いた声でこういう。

「うん、牡丹」

「また見に来ようね、カスミ」
「……」
 熱を帯びた瞳で牡丹を見つめる香澄。
 その頬は燃えるように赤く、耳まで真っ赤だった。
「カスミ?」
「そ、そうだね、ボタン!」
 
 首をひねりながら朝日のほうを見る牡丹。
 その様子を、顔を赤くしてじっと見つめる香澄。

 まるで二人を包み込む様に、太陽の光が輝いた。

【終】

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