とある恋人の目覚めの一杯

末広圭



「今日は何がいい? 好きなのを頼んでよ」

   ◆◆◆

 同棲する恋人が夕食のメニューの希望を尋ねていたのをふと思い出した堀川篤志は、呻きながら受話器を置いた。
「堀川、そっちの調子はどうだ?」
「駄目でした」
「そうか……済まないが、俺はこの後社長らも出席する会議に出ないといけないんだ。1時間ほどで抜け出すつもりだけど、その間対応とか任せてもいいか?」
「畏まりました」
 篤志は、ノートパソコンと資料を抱えて小走りで会議室に向かう課長の背中を目で追いながら、深く溜息をついた。
 彼が今朝出社して間もなく、地方の営業所に勤めている契約社員が通常ならありえないトラブルを起こしていたことが発覚した。その対応で各方面への謝罪、今後のスケジュールの再調整、事態の全容把握に追われ午前はあっという間に過ぎ去っていった。因みに、この修羅場を作り出した原因の人物へ先程から電話を入れているのだが、未だ連絡が付かない状況だ。
 篤志は壁掛け時計の時刻を確認する。今はちょうど13時。すっかり昼休憩をとるのも忘れていた。彼は引出に入れておいた固形タイプの栄養食の箱を取り出すと、封を開けそれを無造作に口に放り込む。今日は偶さか外食予定の日だったのだが、これだけバタバタしていると食べる時間もロクに取れない。口の中でぼろぼろ崩れていく栄養食を缶コーヒーで強引に流し込みながら、私用の携帯電話を取り出して手短にメールを送る。
【申し訳ない。地方の営業所でありえないトラブルが発生した関係で、対応しなくちゃならんから今晩はだいぶ遅くなる。最悪日付跨ぐかもしれないから、先に飯食って寝ていてくれ】
 彼は口の中にあった残りの栄養食を、申し訳ない気持ちと共に再度コーヒーで胃に押しやると、気合を入れ直して作業を再開した。
 今は、この状況を少しでも進展させることに意識を集中させるべきだった。

 結局、例の人物と連絡が付いたのはその日の夕方。トラブル処理に加え、本来今週中に完了させておきたかった通常業務もある程度片をつければならず、篤志が自宅に着いたのは予想通り日付を跨いでからのことだった。
 なるべく音をたてないように玄関を開け、滑り込むようにして中に入る。ようやっと家に帰ってきたという安心感で、途端に眩暈がしてくる。週末はいつも疲労困憊といった調子だが、今回のは特に酷い気がする。それでも、週末に休日出勤しなければならない事態はどうにかして回避しただけマシなのだが。
 廊下を突き進むと、夜遅いのにリビングの灯りが未だついている事におやと思い、扉を静かに開く。向かって右の壁沿いに二人掛けの大きなソファがあり、そこに体格の大きな男が横になっていた。近くまでそっと寄ってみると、癖づいた茶色の前髪から覗く瞼は閉じられており、唇はうっすら開いて安らかな寝息を立てている。
「……待っていてくれるのは嬉しいけど、風邪ひくぞ」
 篤志は溜息を尽きながら、眠りこけている男性を寝室に連れて行こうか考えた。が、自分より大柄な成人男性、しかも意識の無い状態のそれを運ぶのは、疲れ切った自分には容易ではない。早々に諦めて、寝室から毛布を持ってくることにした。ついでに、彼は来ていたジャケットとズボンを脱いでハンガーにかけ下着姿になる。情けない姿だが、今は別に構わないだろう
「まずはコレかけてやらなきゃな」
 篤志は毛布を寝入っている相手に丁寧にかけて、自分は汗を流しにふらつく足取りで風呂場へと向かった。本当はそのまま横になってしまいたい位彼は疲れ切っていたが、流石にべたつく体のままベッドに入りたくは無かった。
 手短にシャワーを済ませ、洗面所に置いていた部屋着に着替えて再びリビングへと戻ると照明を消し、篤志はそのまま寝室へ向かおうかとも思った。が、その前にソファの方へと歩み寄って腰を下ろし、そのままそこで寝息を立てている人物の顔を見つめた。暗闇に目が慣れてくるに従い、横になっている長身の男の輪郭がソファの上に浮かび上がってくる。
 相手の表情までは伺えないが、篤志は、顔を相手の額に寄せて軽く口づけを落とした。
「最近、寂しい思いばっかさせてスマン」
 その一言を告げた途端、それまで耐えていた強烈な睡魔に我慢できなくなり、篤志は最早寝室の方まで行くのも面倒くさいと、そのまま床に寝そべり瞳を閉じると瞬く間に深い眠りに落ちていった。

   ◆◆◆

 越智結樹が瞳を開いた時、薄明りがカーテン越しに部屋へと差し込んで来ていた。
 全身の筋肉がやたら痛む。呻き声を上げて上体を起こすと、自身がソファで横になっていたことに気が付く。
「……そうだ。アツシさんを待っている間に、ちょっと休もうとして横になったんだった」
 昨夜のことを思い出した結樹は、意識が覚醒していくにつれ違和感を覚えた。確か、昨夜はリビングの照明をつけたままうっかり寝入ってしまったのではなかったのだろうか。となると、誰が照明を消したのか――。
 結樹は首を捻りながらも、取敢えず朝食の用意をしようと足を降ろし、その爪先で何やら生暖かいものを踏んだような感覚に思わず叫びそうになった。足を慌てて引っ込めそこにあったものを覗き込むと、予想しなかった人物がそこで横になってるのが目に入り更に驚愕する。
「アツシさん!? いつ帰ってきていたの?」
 大声を上げそうになるのをどうにか堪えた結樹は、わざとではないとはいえ、同棲している恋人を思いっきり踏みつけてしまったことに罪悪感が湧いてくる。
 だが、毛布も被らず床に転がっているガッチリとした体格の男性は、先程のハプニングにも目覚めることなくまるで死んだように昏々と眠り続けている。一瞬、倒れているのではないかと青ざめた結樹は慌ててソファから降り、相手の体に異常が無いか確認する。が、相手の呼吸も苦しげな様子は無いし、目立った外傷なども見当たらない。普段は強面と恐れられる篤志のその顔も、寝入っているためか険しさは然程感じられなかった。
 結樹はほっと胸を撫で下ろし、恋人に自分がさっきまで包まっていた毛布をかけてやった。寝室へと運んだ方が親切なのは判ってはいたが、あまりに相手がぐっすり寝入っているものだから起こしてしまうのは申し訳なく思った。
「さてと、今朝はどんなメニューにしようかな?」
 大きく欠伸をしながらリビングを出て、洗面所で顔を洗ってから台所に移動し朝食に何を出すのか考える。だが朝も相当早い時間、しかも自身の眠りも浅いものだったからか、頭がイマイチ働かない。
 彼は取りあえず眠気を覚ます為、珈琲を淹れることにした。吊り戸棚からお気に入りの品種の豆とドリップセットを取り出すと、すぐさまお湯を沸かし始める。ペーパーに粉をセットし終えてしばらく待つとお湯が沸いたので、やかんから専用のポッドに移し替え温度をちょうど良い頃合いまで冷ます。そしてそれを、最初は少量だけ粉に垂らして十分に蒸らした後、丁寧に湯を注いで芳醇な香りの液体を抽出していく。それがサーバーの規定量に達したところでドリッパーを素早く外し、予め温めておいたマグカップに淹れ立ての珈琲を注いでいく。
 結樹は、今日の出来具合はどんなものかと試しに一口だけそれを啜ってみる。口内で広がる薫り。酸味と苦味の調和がとれたコクのある味わい。手間暇かけてハンドドリップした淹れ立ての珈琲は格別な味わいだった。彼はその出来に満足し、片付けは後でやることにしてひとまずカップを持ちリビングへと戻ってきた。そして、ソファの近くまで足音を忍ばせ近寄ると、そのまま床で寝息を立てている恋人のすぐ脇に腰を下ろし、膝を抱えて体育座りをした。珈琲を口に含みつつ、寝息を立てている恋人の寝顔を静かに見守る結樹の口元には、自然と笑みが浮かんでいく。
「いつも怖い怖いって言われている顔だけど、こんな表情もするんだよね。尤も、知っているのは僕だけだけど」
 最後の方はやや悪戯めいたような呟きで、無防備な恋人の表情を結樹は目を細めて楽しんでいた。
「うう……」
 突如、床に寝ていた篤志が呻きとともに身じろぎをした。結樹は、今の呟きが相手に聞かれていなかったか一瞬焦ったが、そのまま恋人が起き上がるのをじっと見つめていた。
「……ユキ。なんだ、起きていたのか」
「おはようアツシさん。毛布ありがとうね、何時に帰ってきていたの?」
 結樹はなるべく平静を装いつつ、相手にそう問いかける。
「……ちょうど夜中の0時を回った頃かな。起こすのも悪かったし、俺も無茶苦茶疲れていたから、何かベッドに行くのも面倒で……」
 それを聞いた結樹はまじまじと恋人の顔を見つめた。確かに(床で寝ていたのもあるだろうが)、いつもの起き抜けより疲労の色が濃く感じられる。三白眼気味のその瞳は普段より精彩を欠き、焦点がイマイチ定まっていない様子だ。
 改めて、相手の仕事の過酷な面を見せつけられたようで胸が痛んだ結樹は、努めて明るい声で相手を励ました。
「メールでも読んだけど、昨日は大変だったみたいだからね。本当にお疲れ様でした。今週末も会社に出なきゃいけないの?」
「いいや、流石にそれは会社側から止められたわ。先月からの振替休日も溜まっていることだし、正直ゆっくりしてえ。頭が今でもフワフワしてるっつーか……」
 相手が普段より弱弱しくなっているのを見て、これは本気で参っているなと結樹は心配になった。何か、相手が元気になるような一言をかけられないものだろうか。
 ふと、彼はあるアイデアを思いついた。
 それまで手にしていたカップを口に持って行き温くなった珈琲をいくらか口に含むと、それを呑み込むことはせずそのまま篤志の頭を空いた手で自身の方に引き寄せ――。

 自身の温もりを僅かに上乗せして、恋人に珈琲をお裾分けしてやった。

「……どう、ちょっとだけ元気が出てきた?」
「ちょっとも何も、劇薬じゃねえか」
 自身も若干頬が紅潮するのを感じてはいたが、それよりも更にその強面を真っ赤にして両手でそれを覆う恋人のその様子が見ていて可笑しくて、結樹は更に畳みかけるようにしてこう提案する。
「今日は僕もシフトの関係で休みなんだ。どう、久しぶりに僕の手さばきで体中の疲れ取ってあげようか?」
 普段は整体師として近所の整体院に勤めている結樹は、空いている手を握ったり開いたりしながらにこやかにそう話しかける。相手は顔を覆っていた手を降ろしたものの、一瞬躊躇うように視線を横にずらしている。その様子に、結樹は珈琲のカップを手渡しながら、一段と甘い声でこう囁いた。

「昨日は結局何もできなかったから、遠慮しないでいいんだよ。今日は何がいい? 好きなのを頼んでよ」


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