かおりかすか、よみがえる

海和悠汰



 柱の時計が五時を示した。
 夏の朝は既にだいぶ明るく、また、暑い。エアコンは稼動しておらず、その代わりに障子と窓は大きく開け放たれていた。
 縁側と呼ぶには些か簡素な足場と、そこから続く小さな庭。
 庭からは風が吹き込んでいる。
 さほど強い風とは言えないが、それでも部屋の中には流れて来ていた。時折、ちりん、と風鈴が鳴る。風はそっと風鈴を揺らし、そして部屋の中にいる老人の手を遠慮がちに撫でて、そのまま消えた。
 老人はかすかに微笑む。
 穏やかに微笑む。
 笑顔の理由は、手元を過ぎて行った風の涼しさか、それとも自身の手元で立ちのぼる香りか。
「香りが一番、人の記憶を呼び起こすそうですよ」
 微笑みと同じような穏やかな声で、老人はふと呟いた。手元で、お湯を浴びてふつふつと音を立てるコーヒーの粉を見つめながら、それでもどこか遠くを見るような声で。
「だからですかねぇ、コーヒーの香りをかぐと、どうしても思い出してしまいます」
 またゆっくりとお湯をそそぐ。
「僕はあのときが一番怖かった」
 お湯を繰り返しそそぐうち、中身は適量に達したらしく、老人はお湯が少しだけ残っているガラス瓶を卓袱台の上に置いた。
「なんて言うと、君はまた呆れるんでしょうねぇ」
 微笑みの中に、困ったような色が滲む。
 老人は視線を手元から離し、そのまままっすぐに伸ばす。
 その視線の先には、
「ええ、呆れますとも。呆れますよ、あなた」
 外からの光を少し避けるような位置で、穏やかに、老人の妻が微笑んでいた。
「何度も同じ話をしてすみませんねぇ。まあ、ほら、ボケ始めたおじいちゃんのたわ言ですよ」
「あなたはボケてるんじゃなくて、とぼけてるのよ」
 くすくすと、ふざけているのか本気なのかわからない笑い声が、朝の部屋に転がった。
「おっと、いけない」
 お湯が全て落ちきる前に、老人はドリップを引き上げた。ぽたぽたと、深い色をした液体が滴る。それを、周りを汚さないように小皿で受け止めつつ、先程のガラス瓶の横に置く。鼻を近づけて息を吸い込み、老人は嬉しそうに頷いた。
 満足のいく出来になったらしい。
 その嬉しそうな顔のまま、用意していた二つのコーヒーカップにコーヒーをそそぎ始めた。
 カップはコーヒーと対象的に白い……とは言いがたい。何年も使っている物なのか、だいぶコーヒーの色がしみこみ、うっすらと茶色い。カップだけではなく、ガラス瓶も、ドリップが入っている容器も受け皿も、随分と年季が入っていた。
 一番年季が入っているのは、無論、それらを扱う老人の手だったが。
 食器も、老人を取り巻く家具も、家の柱も梁も何もかも、清潔ではあるが古い。
 長い年月が刻まれた古さだった。
 けれど、古い物達で囲まれた家の中にも幾つか真新しい物がある。例えば、静かに鳴る風鈴。風鈴には、幼い子どもが一生懸命描いたと思しき、くにゃくにゃとした筆致で金魚が描かれていた。またその近く、部屋の隅に置かれた大きな二つのキャリーケースと、間に挟まれた小さなリュックサックも新しい。それと。
「ひまわり」
 ちりん、とまた風鈴が鳴った。
 朝の風が、小さな庭に吹き込む。
「咲いたのねぇ」
 風と、少しずつ強くなる陽光を受けて、真新しいひまわりが庭で揺れていた。
「さあ、出来ましたよ。どうぞ」
 小さな音をたてて、老婦の前にコーヒーが置かれた。
「ありがとう、あなた」
 向き合うように老人は座り、コーヒーをすする。朝ではあるが暑い夏の中で、それでも湯気が立つほどの温度。
 熱か気温か或いは両方か。高い温度に苦笑しながら、それでも、老人はその温度を楽しんでいるようだった。
「ああ、いい香りです」
 なによりも、ふわりふわりとかすかに漂うコーヒーの香りを楽しんでいた。
「あらあら、コーヒーの香りは怖くなるんじゃなかったの」
 鼻腔をくすぐる香りに目を細め、その目をさらに細めて老人は苦笑した。
「さっきの話の続きですが。いやあ、まあ、怖いこともありましたが、やっぱり楽しい思い出につながりますよ。特にこの豆だと」
 くすんだ白いカップの中で、コーヒーが揺れる。
「君にも伝わるといいんですが」
「わからないはずないじゃない。そうじゃないかと思ったのよ。これ、あのときのお店の豆でしょう?」
 変わらない老婦の笑顔に、老人は同じような笑顔を返す。
「ちょっと遠出をしたら、雰囲気のとてもいいお店を見つけたんですよ。ふらっと入って一服したら、随分と懐かしい香りがしてきて……。マスターに聞いてみたら、これがまた懐かしい名前の豆だったものですから。つい買ってしまいましたよ」
「あなたったら。また勢いでそういう事をして」
 気恥ずかしそうに髪をかきながら、老人は老婦に問いかける。
「懐かしいでしょう?」
「ええ、本当に」
 そうして見つめあいながら、二人は微笑んだ。
 その間で、コーヒーの湯気が風に乗ってくるくると揺れる。
 縁側のある和室。床は畳で、敷かれているのは座布団だ。老人がカップとソーサーを置いている場所は勿論、卓袱台である。そして、微笑む二人の間にはコーヒーがある。
 和室とコーヒー。
 アンバランスな光景だった。
「こうしていると、本当に思い出しますよ」
 訥々と老人は語り始める。
「あの日、僕はですね、君みたいな上品なお嬢さんを連れて、一体どこに行ったものやらと前日まで悩んでいたんですよ。連れ回してはいけないだろうから、途中でどこか喫茶店にでも寄ろう。そこで最初に行った場所の事を話して、この後の事を話して……そこまで考えていたのに、君ときたら」
 すう、と。一口二口、コーヒーが老人の口に吸い込まれていく。
「まさか着物を着てくるとは思いませんでした」
 苦笑する老人に合わせてコーヒーが震える。
「でも、似合っていたでしょう?」
「まあ、似合っていましたけどね」
 老人はなんとも言えない笑顔を浮かべる。その笑顔以上に、言葉にするには難しそうな哀愁が滲む。
「僕はもうすっかり驚いて。最初に行こうと思っていた場所の名前を一瞬忘れたくらいでしたよ」
「あのときのあなたの顔ったら。あ、これは褒めているのよ? 可愛かったわあ」
「とにかく落ち着きたかったから、予定を変えて先に喫茶店に寄って……。着物なら和菓子だろうか。確かあの喫茶店は、あんみつか何かあった筈だと考えて。そしたら君、コーヒーなんて頼むじゃありませんか」
「だってコーヒーが好きなんだもの」
「若いお嬢さんが着物で、喫茶店でコーヒーですよ。全く、アンバランスな事この上ない」
「あら。わかってないのねぇ、そこがいいんじゃないの」
 光景を思い出しているのか、老人は小さく声をたてて笑った。どうしようもなく愛しそうに笑った。笑って、
「あのときは怖かった。情けない話ですが、本当に怖かった。君と知り合ったばかりで、いきなり嫌われたらと思うと足が竦むようでした」
 そうこぼした。
「……そんな事を考えていたのねぇ、あなた」
 老人が見つめる先で、老婦は優しく微笑む。その目をじっと見つめて、老人はまた一口コーヒーを啜った。
「思い出すと恥ずかしい限りです」
「わたしにはひたすら楽しい思い出だわ」
「君があんまり美味しそうにコーヒーを飲むものですから、僕はそればっかり見ていた」
「あなたったら、じっとわたしを見つめてくるんだもの。なんだかわたしまで緊張してしまったのよねぇ」
「そんなにコーヒーがお好きなんですか? と聞いたときの眩しい笑顔が、僕は忘れられません」
「わたしはそのあとのあなたの言葉が忘れられないわ」
「大好きで毎朝飲んでいると、それを聞いて、ですから、まあ……」
「うふふ」
 笑顔の老婦の前で、老人は呻く。しわの刻まれた顔がかすかに赤い。
 熱ではない。気温でもない。
 蘇る記憶に老人は赤面していた。

「思わず、あんな言葉が口をついて出てしまったわけですが……」
「まあ。プロポーズをあんな言葉呼ばわりなんて、ひどいひとねぇ」

 静かに静かに、風が部屋の中を流れて行く。
「懐かしいものです」
「ええ、本当に」
 風鈴を揺らすにはあまりにも頼りない風の中で、湯気は回る。それを見つめながら、老人は溜息交じりの声を出した。
「最近は昔の事を思い出してばかりです。新しいものと言ったら、あの風鈴くらいですよ」
「他にもいっぱいあるじゃないの」
「懐かしい懐かしいと僕が思うたび、過去が近づいて来るように思えます。ゆっくりと。迎えにでも来るような……」
 迎え、と言い直し、老人はそのまま遠く、夏の青い空を見上げた。
 夏の空へと、溜息がのぼる。
 そのまま見上げながら、ぽつりと。
「本当に、お迎えが近いのかもしれませんねぇ」
 そう、老人が呟いた途端。
「――なんて事を言うの」
 老人と老婦の間で、カタンと不躾な音がした。
 驚いて肩を強張らせる老人の前で、音をたてた物――スプーンは畳の上に転がっていった。
「そんな、そんな事を言わないでくださいな。そんな寂しい事」
 スプーンから老婦へと視線を移し、老人は驚いたようにまばたきを繰り返した。
「あなた、言ってくれたでしょう? あの日」

「毎朝その笑顔が見たいから、僕がコーヒーを淹れますよ。って」

「怖がりながら、それでも言ってくれたじゃない。あなたがここからいなくなったら、誰が私にコーヒーを淹れてくれるんですか。誰がわたしの笑顔を見てくれるんですか。誰が……」
 老人は慌てたように膝立ちになり、老婦の隣へと進む。進み、スプーンへと手を伸ばした。そして、
「ねえ、あなた。わたしは嬉しかったのよ。あなたがあの日、そう言ってくれてほんとうに嬉しかった。だから、わたしは」

――わたしは……。

「……え?」
 スプーンを掴み上げて、老人は顔を上げた。
 何か、何か信じられないような顔をして、老婦を見上げて、何事か言おうと口を開き、
 けれどそのとき。

 りりり、と。

 風が大きく、音をたてて吹き込み、風鈴を強く鳴らした。思わぬ突風に、老人は咄嗟に目をつぶる。風は風鈴を叩き、部屋の中を渦巻き、そしてやって来たときと同じように、唐突に出て行った。
 ゆっくりと目を開いた老人は、呆然と外を眺める。風の行く先を確かめるように。
「今のは……」
 呆然と口を開いた老人の後ろで、
 襖がさっと開いた。
 はっとしたように老人が襖に顔を向けると、そこには彼の息子が立っていた。起きたばかりなのか、まだ少しぼうっとした様子で。
「ああ、父さんここにいたんですか。おはよう」
「あ……――あ、ああ。おはよう」
 対して老人は、その息子以上にぼんやりとした声で、辛うじて返事を返した。その姿に息子は首を傾げる。傾げながら、彼は父親越しに、開け放たれた窓と庭を見やる。もう随分と陽の明るさが強くなった庭。そして、おや、と声を上げた。
「ひまわりが咲いたんですねぇ」
「ひまわり?」
 その言葉に、老人もまた庭へと顔を向け、息子と同じように外を眺めた。眺めて、そして。
「……気がつきませんでした」
 咲いたんですねぇ、と感心したように呟いた。
 ははは、と息子は笑う。
「気がつかないがわけないでしょう」
「気がつきませんでしたねぇ」
「目の前にあるのに、父さんは見えてなかったんですか」
「見えてませんでしたねぇ。僕は母さんしか見えてないんです。ああ、いや……」
 そう言って、老人は庭から再び部屋の中へと視線を戻した。
 視線を戻した先には。
「見えては、いないんですけどねぇ」
 仏壇がある。
 穏やかに、静かに。
 外からの光を少し避けるような位置で、穏やかに、老人の妻は遺影の中で微笑んでいた。
「……写真なら、見えるじゃないですか。写真なら僕にも」
 母さんが見えてますよと言いながら、息子は老人の隣に、老婦の前に座った。
「写真だけですよ」
「父さんは、写真以外が見たいですか」
「見たいですねぇ。会いたいものです。この一年、僕の考えはそればっかりですよ」
 過去を。
「懐かしんでばかりです」
 老人のその言葉には、息子も頷いた。
 頷きながら、彼は問いかけた。
「さっき、何かありましたか?」
 さっき? と老人は問い返す。
「ええ、なんだかぼんやりしていたから」
「……ああ。それが、スプーンが……いいえ」
 言いかけて、老人は頭を振った。
「声が……」
「声?」
「声が、聞こえた気がしましてね」
 二人は揃って、遺影を見つめた。
「母さんの?」
「ええ、お母さんのです。彼女の声が聞こえた気がしまして……ええ、勿論、気のせいでしょうね。僕も年ですから。きっと、まあ」
 幻聴でしょうね、と。
 老人は結んだ。
 その横で息子は小さく微笑んだ。
「案外、本当に母さんの声だったのかもしれませんよ」
 微笑んで、そう言った。
「お母さんの声ですか? だとすると、今のは幽霊の声ですねぇ」
「そうですよ。幽霊になって一言二言言いに来てくれたのかもしれない。いやあ母さんの事だから、一言二言じゃ済まないか。父さんとお喋りしたくてやって来たんですよ、きっと」
「そうだといいんですが」
「きっとそうでしょう。来てくれて、そうして」
 す、と息子は深く息を吸い込んだ。その肺の中いっぱいに香りが、コーヒーの香りが満ちる。
「そうしてお喋りしつつ、父さんのコーヒーを飲んでいたんですよ」
「君もなかなかどうして、良い事を言うようになりましたね」
 失礼な事言いますねぇ、と苦笑する息子の隣で、老人は手に持ったスプーンを眺めた。老人の独り言の最中、何故か突然ソーサーから落ちてきたスプーンだ。服の端で拭いて、今度こそ落ちないようにソーサーの上に置く。置いて、老人は、
「来てくれて、いるんでしょうか」
 息子に問うのでも、老婦に語るのでもない、ただの独り言を呟いた。息子がこの部屋にやって来る前にしていたように、独り言を。
 誰に聞かせるでもない、聞かせるあてのない、ただの独り言を。
 老人は、もしそうなら、と前置きをして。
「ほんとうに、嬉しいですねぇ」
 そう、祈るように呟いた。
 その背中を息子はじっと見つめ、見つめながら、目頭を一瞬だけ押さえる。
「……ああ、そうだ! お昼頃に、僕らは帰りますよ」
 そして、少しわざとらしいくらいに明るい声を出した。
「ええ、忘れ物などないように、気をつけてくださいね」
「ははは。荷物は極力まとめてありますから、大丈夫ですよ。多分」
 部屋の隅にある、二つのキャリーケースと、小さなリュックサックを指差す。
「次にこっちに来るのは、正月でしょうね。何か変わった事があれば、すぐに連絡してください」
 息子の気遣う言葉に、老人はありがとうと答えた。答えながら、首を横に振った。
「ありがとう。でもまあ、多分連絡はしませんよ」
 怪訝そうな息子に老人は微笑みかける。
「僕は変わらないからですよ」
 微笑みながら、自分の言葉に頷いた。
「僕はこれからも変わらず、彼女にコーヒーを淹れるだけですから。変わりようがない。これからも……いやあ、まだまだ」
 老人は振り返る。振り返った視線の先、卓袱台の上には、使い古された道具達と飲みかけのコーヒーがある。体を戻し今度は仏壇に向き直った。そこには、誰も口をつけていないコーヒーがある。まだ暖かく、目の覚めるような香ばしい匂いを、朝の部屋に広げているコーヒー。
 飲まれた物も、飲まれない物も、どちらも老人が淹れたものだ。
 彼が、彼と妻のために、朝に淹れたコーヒー。
「毎朝、彼女とコーヒーを飲むだけです」
 老人がそう言ったとき、ちりん、と風鈴が鳴った。
 まるで老人に賛同するような、そんな爽やかな音だった。
「まあ精々、道具を新調するくらいですねぇ。あとは新しい豆を試すか、そのくらいでしょう」
 そのくらいなら、いいでしょう。と。
 軽やかに老人は笑った。
 それに釣られるように息子も笑い出す。
「それにしても……」
 息子は笑いつつ、仏壇とその前に置かれたお供え物を眺める。どうかしたのかと問う老人に、肩を竦めて仏壇を指差した。
 縞黒檀の壁、位牌、まだ線香の立っていない香炉、そうした様々な仏具の前に。
 コーヒーがある。
「仏壇とコーヒーっていうのは、全く、アンバランスな事この上ないなあ、と思いましてね」
 息子のその言葉に、老人は数回まばたきをした。そして、ふふんと得意げに鼻をならし、
「おや、わかってませんねぇ、これがいいんじゃありませんか」
 彼は、写真の中にいる妻と同じように、穏やかに微笑んだ。


「僕もコーヒー頂こうかな」
「君の分はありませんよ」
「ケチですねぇ、父さんは」
「失礼な事言いますねぇ。ケチじゃありませんよ。お母さんにしか優しくないだけです」


■かおりかすか、よみがえる
(かおり幽か、よみがえる)



あとがき

『ぼくのかんがえたさいきょうの老紳士』が書きたかっただけのような気がします。それと夏なので怪談を、と。実は奥さんの台詞がなくても読めるような構成にしてありますので、お時間のある方は奥さんの台詞だけを飛ばしてもう一度呼んでいただけると、また違ったふうに見えるかもしれません。
それでは皆様、良いコーヒータイムを。


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