屋根の上 君のとなり

清久志信



 今夜、我が家の屋根の上は小さな天文台へと変わる。
 昔から変わらない、俺とアイツ専用の天文台に――。


 今日は八月十二日。とはいえ、あともう数分もすれば日付は変わってしまう。
 虫の音をBGMに、俺は自室の窓から一階部分の屋根へと降りた。
 見上げると、痛いと感じるほどの星明かり。
降ってきそうな満天の星空――いや、まさに降ってくるのだ。今日に限っては。
 そう思った瞬間、夜空を切り裂いてゆく一筋の光が見えた。ねがいごとなど唱える暇もないほどのスピードで。
 けれど、別段残念でもない。これからまだまだ見られるのだから、悔しがる必要もなかった。
 気を取り直し、何の変哲もない黒光りする瓦屋根の上に百均で買ってきた滑り止めシートを敷く。日中に燦々とした太陽光を思う存分吸い込んだ瓦たちは、その色の所為もあるのか日が落ちてずいぶん経った今でもほんのりあたたかい。昼間なら、熱くて裸足で歩くことなど無理だっただろう。
 滑り止めシートの上に、今度はふっくらとした座布団を二枚。
 軒先にはS字フックを利用して蚊取り線香を吊るした。虫よけスプレーでもよかったのだが、俺はこの蚊取り線香の匂いの方が好きなのだ。
 準備は整った。
 ちょうどその時、玄関が静かに開く音がする。アキだ。
 時間が時間だ。家人はすでにみんな寝入っている。鍵は開けておくから勝手に上がってこいと言ってあった。
 寝ている住人たちを気遣ってそろそと階段を上るアキの控えめな足音が徐々に近づいてきた。
「お待たせ。玄関、一応鍵かけといたけど良かったよね?」
「おお、サンキュ。でもまあ、こんなど田舎に泥棒に来るやつもいないだろうけどな」
 そう笑いながら、アキに手を差し出すと、当たり前のようにそれは握り返される。もう一方のアキの手が窓の上側の桟に、右足が下側の桟にかかったのを確認して、ぐいと引き上げた。バランスを崩さないように体を受け止め、そのまま座布団へと誘導する。
「お! この座布団、めっちゃクッションいい」
 一瞬ゼロ距離になったことなど欠片も気にしていない様子で、アキは座布団の座り心地にご満悦だ。
「だろ? この間見つけたから確保しといた」
「ソウタはほんといい仕事するよね」
 からりと笑うアキに、
「当然。俺を誰だと思ってんだよ」
 そう胸を張る。ソウタさまーなんて両手を合わせて拝むふりをするのはいつものことだった。
 俺とアキは幼なじみだ。物心ついた頃から一緒にいて、保育園から中学までずっと一緒だった。高校では離れてしまったけれど、ずっとつかず離れずのような関係は続いていた。
 本来なら、高校で離れた時点でもっと疎遠になっていただろう。
 けれど、俺とアキを繋ぎとめていたものがあった。それが、この屋根の上だ。
「あー、やっぱりここが一番落ち着いて星見られるわー」
 心底安心しきったような声をアキが洩らすのに、自然と笑みが零れた。
 きっかけは、確か小学校の四年生の頃。理科の授業で星座を習い、教材として星座の早見盤をもらった。教師のつき添いの元、クラスで集まって天体観測などもした。
 アキはそれで星座や宇宙というものに思いっきりハマってしまったのだ。
 親に頼んで星座や惑星、宇宙関連の図鑑や書籍などを買ってもらい、天候の許す限りで日々の星座の観測なんかもしていた。その時のノートは今でも大切に持っているらしい。
 そんなアキが、ある日かなり落ち込んでいて、俺は気になって理由を訊ねた。原因は天体観測に夢中になりすぎて、窓から身を乗り出し過ぎ、危ないから辞めなさいと叱られたらしい。
 がっくりとうなだれ、目の端に涙まで浮かべているアキを放っておけなくて、気が付けばうちで観測したらどうかと提案していた。
 うちなら、多少身を乗り出しても一階部分の屋根があるからそう簡単には落ちたりはしないだろうと。
 当然アキのお母さんは渋ったけれど、結局いくつかの条件を呑むことで許してくれた。
 一つ目は、観測は週に一回だけにすること。
 二つ目は、うちの家族に迷惑をかけないこと。
 三つ目は、一人では観測しないこと。
 アキは素直にその条件を守り、そして俺はアキに協力した。俺の部屋をアキの天体観測に提供したのだ。言い出しっぺなのだから当然だろう。
 そうして、俺とアキの天体観測会が毎週開催されるようになった。
 最初は大人しく窓際で観測していた俺たちだったけれど、そのうち屋根へ降りるようになっていた。裸足で降りればそうそう滑ることもない。幸いにも、俺の部屋の位置はアキの家からは見えない方向で、うちの家族がバラさない限りアキのお母さんに知られる心配もなかった。
 年を経るごとにアキがうちの屋根に来る頻度は減っていったけれど、それでも流星群だとか月食だとかスーパームーンだとか、天体イベントがあるときは必ず二人で屋根にのぼった。ここはずっと、俺たち二人の天文台だったのだ。
 今日はペルセウス座流星群の見られる夜。しかも今年は新月で、月明かりに邪魔されることのない絶好の観測日和なのだ。
 大学に入学後は二人とも実家を離れていたから、こうして二人で星を見るのは久しぶりだ。もしかしたらと思って、バイトの休みを取り、お盆に帰省してよかった。
「あ、もう流れ始めてる」
「おお。さっきアキが来る前にも見えたぞ」
「おねがいごとした?」
「これから腐るほど見えるんだからいいだろ」
「それもそっか」
 小さく笑うと、アキは滑り止めシートと座布団をそれぞれずらし、屋根の上に寝転がった。屋根の傾斜は、寝転んで星を見るにはちょうどいいのだ。俺もそれに倣い、二人並んで少しずつ数を増やし始めた流星を見送る。
 ぽつりぽつり、他愛ない話をとりとめもなく話しながら。
 虫の音。蚊取り線香の香り。背中に伝わる瓦の熱。生暖かい夏の夜風。そして隣には、そこにいるのが当たり前の存在。
 交わす言葉は多くはない。むしろ、無言になる時間の方が長かっただろう。けれど、それがかえって心地いい。言葉に頼らなくても、アキはそれでいいのだ。

 幾条の光が夜空を切り裂いてゆく。
 いくつもいくつも。何度も何度も。
 その間、願うことなど忘れるほどに魅入ってしまう。
 そうして気づけば、西の空が白み始めていた。流星もかなり見えづらく、数も少し減ってきている。
「ねえ、ソウタ」
「何だ?」
「私ね、ずっと自分のこと晴れ女だと思ってたんだ」
 言われて思い返すと、アキとともに見た天体イベントはことごとく晴れだったことに気づく。
 普段から明るく元気の良いアキは、晴れ女という言葉がよく似合った。
「そういや、おまえと一緒に星見るときは、いつも晴れだったな」
「うん、だからそうなんだと思ってたんだけど、違ったみたい」
 納得していたところに否定が入る。肩透かしを食らった気分になったが、あえてツッコミは入れずに理由を訊いた。
「何でそう思うんだ?」
「だって、大学のサークルで星見に行った時、かなりの高確率で降るんだもん」
 なるほど。それは確かに晴れ女ではないだろう。むしろ――、
「逆に雨女だったって? んじゃ、いつも降らないのは俺が晴れ男ってことか?」
「でも、高校の時、行事のたびに雨降ってたのソウタの方じゃない」
「……だよな」
 アキの指摘通り、俺が絡んだ行事はそれはまあ悲しくなるほど雨だった。修学旅行の時など、行く先々で雨が降り、帰る頃には上がっている始末。それだけなら同じ学年に雨男雨女がいた可能性もあるのだが、俺が風邪で休んだ体育祭はそれはそれは素晴らしい秋晴れだった。
「だからね、多分もっと限定的なものなんだと思うんだ」
 寝転がったまま、アキが顔だけこちらに向ける。少し照れたように笑って。
「限定的?」
「うん。ソウタと私が一緒に星見るときは降らない。天体観測限定晴れ男女」
「何だよそれ」
 ぷっと小さくふき出してしまった。どれだけ限定条件があるんだと、笑わずにはいられない。
「でも、ほんとソウタと見るときはいつも綺麗に見えるんだもん」
 俺の態度に拗ねたのか、アキがふくれっ面になる。が、言われた言葉が何ともこそばゆい。
 今の台詞、どことなく夏目漱石的だって気づいているのだろうか。いや多分、まったく気づいてなんかいないだろう。アキは昔から、こっちが恥ずかしくなるような台詞を、当たり前のような顔で吐くのだから。
「……じゃあ、これからも一緒に星見てやるよ」
 顔を見られないように、上体を起こしながらそう告げた。「さんきゅ」と短く返る感謝の言葉は、やはりいつも通りだ。
「そろそろ明けるな」
「うん」
「ちょっと待ってろ」
 言い残して俺は一旦屋根から家へと入り、台所へと向かった。
 お中元で大量にもらったドリップ式のコーヒーを二人分準備する。片方にはミルクを多めに、砂糖を少しだけ加えた。
 そして最近大学の近所にできたコーヒーショップで見つけた蓋付きのタンブラーを取り出す。何となく活躍するかもと思って二つ買ってきておいてよかった。色違いのデザインのそれに、それぞれのコーヒーを入れて屋根へと戻る。
「ほら」
「ありがと。ほんとソウタってデキる男だよね」
「だろ? 超優良物件だぜ」
「うん。しかも特別天文台付きだもんね」
 自分で言うなとつっこまれるかと思ったのに、予想外の答えに言葉を失った。つっこまれないと自分が自惚れているみたいで恥ずかしいじゃないか。
「うん、美味しい。コーヒーまで美味しく淹れられるとか優良物件過ぎ」
「いや、これ普通にお湯注ぐだけのだし。誰でもできるやつだし」
「ソウタが淹れてくれるから格別なんだよ」
「……おまえな」
 いつになく褒められまくっている。いや、もうこれは口説かれている気すらしてしまった。もちろん、アキにそんな気持ちは露ほどもないと知っているけれど。
「これからも、一緒に星見てくれるんでしょ? だったら、コーヒーも毎回期待してるね」
 他意があるのかないのか、アキはどことなく色めいた笑みを俺に向けたあと、薄紫に染まる空を見あげた。
 朝に染め変えられつつある空に、消え入りそうな流星が走る。
「……今のが、見納めな感じかな?」
「みたいだな」
「残り物には福があるって言うし、叶いそうだよね、おねがいごと」
「したのか?」
「まぁね」
 意味ありげに微笑むアキは、ぐいと残っていたコーヒーを飲み干した。
「美味しかった。ごちそうさま」
「ああ」
 差し出されたタンブラーを受け取り、窓際のカラーボックスの上に二つ並べる。
 けれど、アキは立ち上がろうとはせず、そのまま朝焼けの滲む空を見つめていた。
「次は、もし帰ってこれそうなら十月かな」
「オリオン座か」
「よくわかったね」
「何年一緒にいると思ってんだよ」
 おまえの所為で気づいたら天体イベントチェックするようになってたんだからな、と再びアキの隣に腰を落ち着けて独り言のように続ける。
 人の所為にするなと言われるだろうが、それでもアキがいなければ俺は徹夜してまで星を眺めるなんて一生するはずがなかったのだ。
 だから――
「一応、空けといてやるよ」
「え?」
「俺と一緒じゃないと雨降るんだろ?」
 二人一緒ならば、雨も雲も邪魔などしない。きっとできない。俺たちは、天体観測限定の晴れ男女だから。
「……じゃあ、また美味しいコーヒーが飲めるや」
 綻んだアキの表情に、俺も自然と頬が緩む。そんな顔をされるから、多少の手間暇などあって無きが如しになるのだ。
「仕方ねぇからそっちも準備しといてやるか」
「そういえば、何で私のコーヒーにミルクと砂糖入れたの?」
 思い出したように、アキはそう問いを投げかける。
 ついさっき、俺が淹れたコーヒーのミルクと砂糖入りはアキに渡したのだった。
「美味かったんだろ?」
「うん。ミルクも砂糖も絶妙な量だった。だから、何で好み知ってるのかなって。私言ったことあったっけ?」
「おまえ昔はミルクたっぷりで砂糖少なめの紅茶好きだっただろ? だからコーヒーも同じかなって思っただけだよ」
「……よく覚えてたね」
「まあな」
 照れ臭くなって視線を空へ投げる。朝焼けの変化は早い。薄紫だと思っていた空はピンクを経てオレンジが顔を出しつつあった。
 この色を、曙色とか東雲色とか言うのだろう。暁の――アキの色だ。
「ソウタ」
「何だ?」
「コーヒー、おかわり飲みたい」
「ったく……。ほら、下降りようぜ」
 俺の気持ちなどお構いなしで、アキはどこまでもマイペースだった。それでもそんなアキだからこそ気楽に付き合えるのだと思い、手を貸して部屋の中へと誘導する。
「ソウタ」
「今度は何だ?」
 ぐいと手を引かれ、耳元に囁かれた言葉に瞠目して固まってしまった。意味を理解するとともに、顔に熱がかっとのぼる。
「先降りてるね」
 俺を置いて、アキはさっさと部屋を出ていった。トントンと階段を降りていく小さな音が聴こえる。
 平然とした態度で去っていったアキだったが、それでも薄暗い部屋の中で確かに視認できる頬の赤さは、つい先ほど見た朝焼けの空のようだった。
「……勘弁しろよ、もう……」
 その場にしゃがみ込み、頭を抱える。右手で隠すように抑えた自分の顔は、熱でも出たのかと思うほど熱かった。


「何ニヤついてんの?」
 眼前に広がっていた夜明け前の空が、突如アキの顔に遮られる。驚いて身を引こうとするが、寝転がった屋根の上では無理な話だった。
「べ、別にニヤついてなんて……」
「ニヤついてたよ。何思い出してたの? スケベ―」
「誰がスケベだ! ……ちょっと、十年前のこと思い出してただけだよ」
 十年前の八月十二日。あの日も今日と同じように二人でこの屋根の上にのぼった。
 そして、数え切れないほどの流星を見送った後、二人でコーヒーを飲んだのだ。
「もう十年かー。歳もとるわけだわ」
「おばさんくさいぞ」
「うるさいな」
 俺とアキは、あの頃と変わらないまま隣にいる。気の置けない幼なじみのまま。けれど、ほんの少しだけ形を変えて。
「ソウタは変わらないよね」
「アキもだろ」
「そうかな?」
「そうだろ。未だに毎年欠かさず屋根のぼってんだから」
 アキは相変わらず星好きで、相変わらずのマイペース。俺はそんなアキの天体観測に今もこうして付き合っている。
 変わったところと言えば、アキの名字と俺たちが子供を持つ親になったということくらいだ。
「毎年欠かさず、ソウタはコーヒー淹れてくれるしね」
「今年はバリスタ買ったからな。今までより美味いと思うぞ」
「何言ってんの。ソウタが淹れてくれたコーヒーはいつだってどんなのだって美味しいよ」
 にこりと笑うアキの笑顔は、やっぱり昔と変わらず無邪気で、だからこそ質が悪い。
 こんな笑顔を見せられるから、俺はいつもほいほいと甲斐甲斐しく世話を焼いてしまうのだ。
「ソウタ」
「何だ?」
「その美味しいコーヒーをそろそろ所望する」
「わかったよ」
「さすがソウタ。デキる男は違うね」
 調子のいい褒め言葉を寄越すアキを屋根に残し、買ったばかりのバリスタでミルク多めで砂糖少なめのコーヒーを準備する。十年前に買った色違いのタンブラーも、少し色は褪せたけれど現役だ。
 さくさくっとコーヒーと二人分準備し、屋根の上へと戻る。忠犬のように大人しく待っていたアキに手渡すと、嬉しそうに口を付けた。
「んー! やっぱりソウタのコーヒーは美味しい」
「それはどうも」
「セイタがもう少し大きくなったら、三人で見たいね。そしたらセイタの分はココアかな」
「アイツがこの時間まで起きてられると思うか? 絶対に途中で眠いって布団にもぐり込むと思うぞ」
「あ、それもそうか」
 お子様に徹夜は無理だねと笑うアキに、けれどいつかは三人で見たいと俺も思ってしまう。この時間まで起きていられるくらいになれば、セイタもコーヒーの味くらいわかるようになっているかもしれない。とはいえ、セイタの好みはアキとよく似ているからミルクたっぷりの砂糖少なめがきっといいのだろう。
「あ、またニヤけてる」
「ニヤけてない。楽しみにしてるだけだよ」
「……そっか」
 何を、とは言わずとも、俺の想像した未来をアキも察したらしい。ふんわりと柔らかな笑みを浮かべた。

 星降る夜に、我が家の屋根の上は小さな天文台へと変わる。
 そうして流れる幾多の星を見送った後、今度は朝焼けに染まるカフェテラスへと移り変わるのだ。
 きっと、この先もずっと――。


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