レディ・メイドの可変

陽本明也



 まず、知らない匂いがした。 
 自身のものでありながら、しっくりと馴染んでいない匂い。心地よい彼女の匂いと混じりながら、進級して間もない教室のような、まだ馴染みきっていない匂いだった。背や肩を包み込むマットレスの感触が、以前よりも随分と心地良くて、明宏に瞼を押し上げることを拒ませる。ぼんやりとした浮遊感の中を彷徨いながら、だんだんと起きてくる思考でなんとなく、ベッドを新調して正解だったと、確信する。マットレスに拘ったのは、夜型の彼女が少しでも夜に眠るという行為に馴染めば良いと思ったからだ。実際に作戦は成功のようで、伸ばした腕に重さを感じ、薄らと瞼を持ち上げてみれば、背を向けて、枕やシーツに川のように流れる髪を垂らす彼女の後頭部が見えた。眠っているだろう横顔を見れないことは残念だったけれど、今まで違う生活をしていたのだから、それも仕方のないことだ。起こさないように中身の詰まった頭の乗る腕を引き抜くと、小さな圧迫感から開放される。痛くもなく、痺れもない腕の筋肉は、もしかしたらこの時のために発達したのではないか、とすら思えて、随分と浮かれている自身に気づいた。
 つけっぱなしのエアコンが、寝息のような静かな呼吸を繰り返すように風を吐き出して、室内の温度を一定に保っている。取り急ぎ買い揃えたカーテンの隙間からは、細い光が差し込んで真新しい室内を薄らと浮かび上がらせていた。部屋の隅に積まれたダンボールは、彼女のものもあれば、明宏の衣服もある。片付けの途中で日が落ちて、明日にしよう、なんて言いながら、彼女をベッドに連れ込んだのは数時間前のことだ。まだ馴染みきってもいない、最低限のものしか揃っていない寝室は、ぼんやりと明宏の思考を前向きに覚醒させるには十分だった。
 上体を起こして、もう一度室内を眺める。一人暮らしのときよりも増えた荷物や、揃えなければならない家具を思い出し、なんとも言えない幸福感が腹の底から湧き上がった。朝からテンションが上がるのは、一体いつぶりなんだろう。
 自覚すると、なんだか唐突に羞恥心に見舞われる。まるで中学生みたいな気持ちになって、それも隠したくなって、彼女の髪に手を伸ばそうとした時だった。もぞもぞ、と小さな頭が動いて、窓の方へと向いていた身体が反転する。まだ眠たげにまどろんでいる瞳が、明宏を見つけると小さく目尻を下げる。
「おはようございます、明宏さん」と、唇が掠れた声で笑った。
 明宏は後頭部に伸ばすはずだった指で、彼女の頬をなぞる。まるで小さな動物のように身を捩る彼女に合わせてベッドが小さく揺れる。
「おはよう。いい朝だよ」
 なんとなくの感覚を自然に言葉にしてみると、確かに今日はいい朝だ。カーテンの隙間から快晴の空が見えた。

 
 葵に一緒に暮らそう、と言ったのは明宏だった。
 上司と部下から男女のそういった関係になって、もう三年になる。出会った頃の葵には、当時付き合っていた恋人がいて、明宏も彼女がいた。会社で顔を合わせるだけの葵のことを、よく知るようになったのは、彼女が恋人と別れて、決して参加しなかった飲み会に顔を出すようになってからだ。その日の朝の会社で、葵の目が腫れていたことを明宏は覚えている。何人かの女子社員が彼女を囲んでいて、「文句を言っても良いんだよ」と叱責するような声や、「そんな男と別れて正解だ」と慰めるような口調がデスクの周りに広がっていた。葵はただ苦笑いを零しながら、しきりに礼を言い続けていて、何処かやりにくそうな表情でデスクに備え付けられたパソコンに向かっていた。長い間付き合っていたという元恋人と別れてからの数日間は、ずっとそんな雰囲気が女子社員の間に渦を作っていたように思う。愛想のそれなりに良い葵は、それなりにあけすけにモノを言う性質であったし、男がいることも隠していなかったからか、彼女と交流のある女子社員達は何かと葵を気にかけていた。
 人の恋路の波乱は他者をじんわりと高揚させる。気遣いに隠れた興奮も、恋愛という現象においての価値観のぶつけ合いも、全ては葵の為だという言葉に収束して投げつけられているように、明宏には見えた。それは不和でもなく、かといって暴力でもなく、人の為だという正義感と心配だ。事実、室内に広がるヒソヒソとした声の中には、葵を悪く言う女子社員はいなかったし、ただ状況だけが葵にとって居心地の悪いものであっただけなのだろう。明宏は上司という立場であったものの、プライベートな物事に首を突っ込む気にはなれず、撫で付けるような言葉の波がゆっくりと引いていくのを見ているしかなかった。
 ただ感心したのは、随分と居心地の悪そうな状況にも関わらず、葵は決して会社と休むこともなければ、余計に仕事に打ち込み始めたことだろう。後に聞いた話だけれど、学生時代からの十年を共にした男と別れたことに、葵はとにかく「一人で生きていかなければ」と躍起になっていたらしかった。
 男がいることを理由に酒の席に顔を出さなかった葵が、ちょくちょくと会社のお疲れ様会や、社員同士のプライベートな飲み会に顔を出すようになり、葵の家が明宏の自宅と近かったこともあって、肩を並べて帰路につくことも多くなった。
 アルコールによって滑りやすくなった口のおかげで、事務的な会話やたまに冗談を言うだけの葵とよく喋るようになり、愛想の良い彼女の話に耳を傾けるのが、いつしか明宏の役目になっていた。彼女が男と別れたこと、丁度同じ時期に明宏が彼女に別れを告げられたことも、タイミングが良かったのかもしれない。連れ添った人間を悪く言えるような時期でもなく、互いに線引きをしながら「それも経験だった」としきりに言い合って、溜息を吐きながら笑ってみせた。
 葵はどれだけ飲み歩いても、次の日はきっちりとした薄いメイクをして、皺のない制服を着て会社にやってくる。夜な夜な飲み歩くようになったのは、「夜が眠れないからだ」と苦笑して、それでもなんとか生きていこうと必死なようにも見えた。付き合ってからも、その癖がなかなか抜けなくて、飲み歩くことはなくとも、葵は夜遅くまでテレビやラジオに耳を傾けている。
 起き上がった葵と寝室を抜け出して、ダンボールが積まれたままのリビングに足を踏み入れる。置いてあるテーブルや、ソファや、テレビといった大型の家具だけが鎮座している乱雑なリビングは、やはり馴染むことが出来ずに、まだ自宅だと認識するには時間がかかりそうだ。
「今日も片付け頑張らないとですね。連休も明日までですし」
 積み上げられたダンボールを見つめながら葵が言う。やる気ばかりで現実感のある言葉は、彼女らしく柔らかい。
「嫌なことを言うなよ」会社という単語が脳裏に浮かんで、明宏はげんなりと眉を顰めた。
「明宏さんは会社は嫌いですか?」
「嫌いじゃないけどさあ。俺は公私は分けたいんだって」
 楽しげに笑う葵の腰を抱きながら、朝に似つかわしくない大きめの声が出る。そのまま腕に力を込めた。
「きゃあ」女々しい短い悲鳴のあとに、足の浮いた葵のケラケラとした笑い声が響き「もう、明宏さん」と、叱責にもならない非難が飛んでくる。 
 腕に巻きつく細い指の感触を感じながら、そのまま拉致するように洗面所へと移動する。浮いたままの葵は「明宏さん、お父さんみたい」なんてことを言いながら、子供のように笑い声を上げてしがみついていた。
「清々しい朝に仕事のことなんて思い出させないでくださーい」
「えー、でも今から肉体労働全力ですよ。食器棚とか、本棚とか組立てなきゃですもん」
「それは俺がやるから。引越し最初の葵の仕事は別だろ」
 葵の小さな足が床についたのを確認してから、明宏も腰に回していた腕を解く。二人で並んで鏡の前に立つ。こういうことを、一緒に肩を並べて、そこにいるのが不自然じゃない朝を迎えるのは、今までホテルやどちらかの家だった。歯ブラシを手に取るのも、遠慮しながら同じ蛇口を捻るのも、一緒にやっているはずなのに、互いにどちらかが客だった。それなのに、今日からは、どちらもが家主であるのだ。住んでいる家で、不変的な儀式を行うみたいに、顔を洗ったり、歯を磨いたりする。
 なかなか寝付くことの出来ない葵が、付き合ってからはゆっくりとベッドに潜り込んでくるようになった。お互いの経験は、年齢的な意味もあって、どうしたって忘れることが難しい。前の男はこうだった。前の女はこうだった。それは良い思い出ではないけれど、やっぱり何処か悪い習慣の足跡のようにこびりついている。だけど、傷と言えるほどの大袈裟なものでもない。
 この新しい借家のように、前は誰かが住んでいたから、どうしたって葵も明宏も新居にはなれない。持ち寄った寄せ集めの家具みたいに、経験という使い古した何かがある。
 それでも、こうして同じ朝を迎えたいと思ったのだ。鏡の前に並んで、格好をつけるわけでもない顔をしながら、冗談みたいな話をしたかった。不変的な幸福を葵に感じて欲しかったし、葵とならそれが出来ると思った。
 さっきまでまどろんでいた丸くて黒い瞳が明宏を見上げてくる。歯ブラシを咥えた唇がもごもごと動いているけれど、言葉にはなっていない。
 それでも、葵が「なんですか?」と言っていることが、明宏には簡単に読み取れた。
「まずは朝食。その前に俺はコーヒーが飲みたいなあ」
 口を濯いでから冗談めして言えば、同じ行動をする葵が嬉しそうに頬を緩めた。
「任せてください。昨日のうちに台所だけは、ちゃんと片付けておきましたから」
「流石、館石さんは優秀だな」
「チーフほどじゃないですよ」
 まるで会社にいるみたいな口調で言い合うと、またなんだか自然と笑えてしまった。


 引越し先を考えた時、明宏の頭の中には、すでにこの光景が想像出来ていた。
 同じベッドで眠る葵の後頭部や、同じ朝を一緒に迎えることもそうだ。馬鹿な話をしながら洗面所に向かって、コーヒーのいい匂いが鼻を擽ってくる。想像の上では、こんなに乱雑な室内ではなかったけれど、それでも包装を解いたばかりのテーブルに座り、葵の持ち物だったテレビを見ていると、明宏の頭の中がそのまま現実に出てきてしまったような気さえする。そのうちダンボールもなくなって、もう少し家具の紐を解いたら、いよいよ新生活に相応しい光景が目の前に広がるのだろう。
「インスタントですけど、良いですか?」
 キッチンに立っている葵が、数種類のコーヒーの入った袋を持ち上げている。ケトルはまだ出していないから、代わりに火にかけられたヤカンが沸騰している。
「ああ、かまわないよ。っていうか、そんなに気を遣わなくても、俺はインスタントで怒ったりしないけど?」
「知ってますよ。でも、コーヒーに拘っているのも知ってます」
 どれが良いですか、とカウンターの向こうから差し出されるコーヒーの袋を指定する。どこかしたり顔の葵は、随分と楽しげで、彼女も明宏と同様にどこか浮かれているらしかった。
「そんな話したっけ?」
「してませんけど。明宏さんって、会社のコーヒーは、会議じゃないと飲まないじゃないですか」
「コーヒー出しながら、そんなとこ見てたのか」
「同じ会社の特権です」
「事務は怖いなあ」
 葵がカップを出すのを眺めながら苦笑すれば、その分だけくつくつと、葵の肩が揺れる。引っ越した直後だというのに、彼女の言うとおり台所だけは、ある程度きちんと整えられていて、なんだか神聖に思えてしまった。カウンターを挟んで対峙する葵が、なんだか眩しく見えてしまう。
 それはあまりにも不変的で、何処かで見たような風景だ。よく思い出せば、実家の両親や先に結婚した友人の生活だったりするのかもしれない。もっと記憶を辿ってみせれば、フィクションだと分かっているはずのドラマや映画の中の、些細でチープな幸福劇場の一部だったのかもしれない。
 それでも明宏は、酒にほろほろと酔いながら目を赤くして苦笑する葵と、そういう恋愛がしたかった。十年を連れ添って、最終的には破局を迎えるような大恋愛でもなければ、好きだ好きだと喚き続けるような情熱があるわけでもない。
 明宏は前に付き合っていた女の顔を、もう思い出せなくなっている。付き合ったのは、五年だったか、四年だったか。とりあえず現在の葵とよりも、長い付き合いだったはずだ。それなのに、同じ屋根の下で暮らす気にはなれなかったし、彼女もそんなことは一度も言わなかった。実のところ彼女には、明宏と関係を始める前から別の男がいて、別れる時には「彼と結婚をする」と言っていた。傷ついたか、傷つかなかったか。そう問われたら、きっと傷ついたと、明宏は答えるのだろうけれど、なんとなく都合の合う日に顔を合わせ、食事をして、身体を重ねるだけの相手だったと言えば、自身の中で収まりも良かった。無駄なプライドなのかもしれない。明宏は自身の数年間を無駄にしたと思いたくはなかったし、なんとなくそんな自身は惨めに思えた。
 それでも重ねた年齢の分だけ、失恋や別れというものに、随分と堪えるようになっている気がする。恋を覚えた頃の少年時代のように、きっと明宏は玉砕覚悟の初々しい告白なんて出来ないだろうし、他人から見れば、結果論として弄ばれているような恋愛を引きずることも難しい。こういうことを言うと、大抵同期連中には「おっさんみたいなことを言うなよ」と笑われるのだけれど、それでも体力も情熱も、きっと追いつかないのだろうと思う。多分それは、恋愛をするたびに経験が身体に染み付くからだ。相手の顔も思い出せないのに、ふとした仕草や言葉は重なっている。米の硬さの好みや、洗った食器の置き方なんて、どうでもいいことばかりを覚えているのだから始末が悪い。
 だから葵と付き合うようになってから、よく互いの前の相手の話をした。ここがこうだった、ああだったと言い合うのは、もしかしたら気分の良いものではないのかもしれないし、他者から見れば無様で滑稽だったのかもしれないけれど、葵もまた明宏と同じくして、経験を染み付かせているようだった。そうして、時々二人して、まるで間違い探しのように、経験のない互いの部分を探し求めたりもしたけれど、結局はどちらでも良かった。前と同じでも、違っても、なんとなく葵といると落ち着いてしまう。それは明宏にとって、おそらくは変化だったのかもしれない。
「明宏さん」物思いに耽る明宏に、葵の声がかかる。「コーヒー出来ましたよ」
 弾むような声につられて、カウンターに視線を流せば、お揃いのカップにコーヒーが注がれている。苦味を感じさせながらも、心地よい香りが室内に広がって、明宏の鼻を通り抜けていく。
 ああ、いいな、と感覚的に思う。
「あのさ」カップを指に引っ掛けて、言いながら明宏はコーヒーを一口飲む。快晴の空の下なら嫌になっていただろうホットコーヒーが、ゆっくりと臓腑に染み渡る。インスタントもたまには悪くない。カップにミルクを落としながら、耳を傾けてくれている葵に、やっぱりいいな、と感じている。
「俺、こういうのなんかいいなって思うんだよな。目一杯の精一杯じゃなくて、ちょっとゆっくりしながら恋人といるって感じ」
「分かります。なんだか色々染み付いてるものが、ゆっくり溶けてく感じ」
 小さなスプーンで注いだミルクを混ぜながら、葵もゆったりと言った。上手く言葉にならない感覚が、ちゃんと伝わっている。音を立てずにコーヒーと混ざっていくミルクが、なんだか自分たちのようだった。
「私、こういうの好きですよ。朝起きて、恋人と笑いながらコーヒーを飲んだりするの。別に一人でもコーヒーぐらい飲めちゃうし、全然情熱的でもないんですけど、すれ違うよりよっぽど幸せだと思うんです」
 誰とすれ違ったのかを葵はもう言わないのだろう。それでも染み付いただけの経験が、きっと彼女に言葉にさせている。比較対象を持って、なんかいいと現在を思ってくれるのなら、それは卑屈な憂鬱よりも、優越感に変わっていくような気がした。
「お互い色々あったもんなあ」
「そんなに大袈裟なことじゃないですけどね」
「いやいや、俺らにしてみれば大事件だった」
「確かに、あの頃はどうやって生きていけばいいのかも、わかりませんでした」
「途方にくれて酒ばっか飲んでたのが、今やコーヒーだもんな」
「健康的に長生きしましょう」
 くつくつ、と笑いながら明宏は、葵の言う未来を想像する。何年後か、何十年後か、またこうして二人でカウンターを挟んでコーヒーを飲んでいる。きっと部屋は今よりも片付いていて、お互いの持ち込んだチグハグな家具も、きっと色や形が整っているのだろう。それは劇的でもなければ、情熱的でもない。人が生きていく上で当たり前の光景だ。生活に合わせた家具を揃えること、年齢に合わせた関係を歩んでいくこと。不変的で誰にでも出来そうで、だけれど奇跡的に上手くやるのが難しい。きっと彼女となら、そうなることが自然なような気もしたし、もし難しく感じてもやっていけるのだと思っている。
 シミになってしまった経験を塗り替えることは出来ないだろうけれど、今の新しい何かに変換することは可能なのかもしれない。
 多分、これはそういう恋愛だ。引越しを決めて良かった。
「でも、まずは片付けからですけどね!」
「ゆっくりやろうよ。俺たちなりに」
 苦味のあるコーヒーを啜るたびに、不変的な日常が続いていくのだろうと思えることは、些細でチープなのかもしれない。それでも明宏は、忘れたい恋愛も、染み付いた経験もあって、ようやく葵に出会った。
 そう思いながらカップを持ち上げて、コーヒーを啜る。よくあるインスタントコーヒーも、まるで二人のように不変的な苦味や香ばしさを口内に広げていく。


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