真昼の夜明けと真夜中の夕暮れ

陽香



 朝。部屋は既に明るく、夏用の涼し気な薄手のカーテンと頭まで被ったタオルケットではその光をシャットアウト出来ない。更に閉めた窓より外から聞こえてくるやかましい蝉の大合唱と、すぐ近くで聞こえる旧式エアコンの規則的で大きな稼働音。その音がなんとなく不快で二度寝しようにも出来ない。
 光に関しては世界中どこにでもある自然現象だからしょうがないと諦められる。だがしかし、音だ。実家は住宅街の真ん中にあったから音にはあまり悩まされなかったが、田んぼに囲まれたこの家に越してきてからは随分と悩まされるようになった。昼は実家の周辺の音量と比べ5倍ぐらいにサービスされた蝉の大合唱、夜になれば本物は聞いたこともなかった蛙の輪唱。夜勤終わりは車の運転も不安なくらい眠くて眠くてしょうがないので音なんて気にしてられないが、二度寝をキメようとした時には困る。数年経てば慣れるとあの人は言っていたが、この家に住んで約1年、慣れる気配は一向に無い。いい加減お高い耳栓の導入を考えよう。

  ──そういえば。日付が変わった時くらいに10分くらい休憩してから何も食べてないし、二度寝は諦めて食事だ食事。それに壁にかけた時計の短針は右を向いている。今は15時か。昨日──いや、今日は夜勤だったから家に帰ったのが朝の10時前で、深夜に急患の対応があって1時間の仮眠もロクに取れなかったのに、よく5時間睡眠で自然と目が覚めたもんだ。
 タオルケットをやんわりと振り払い、上体を起こして左手でサイドテーブルに置いた眼鏡を取りかけ──サイドテーブルが無い。寝返りでかなり遠いところまで来てしまったんだ。2つ並んだセミダブル、普段は寝転んだ時に左側の方で寝ているが、今は右側にいる。寝返りでここまで来たのか。私の寝相恐るべし。こっちのベッドはあの人の匂いがする。ほふく前進と四つん這いの間くらいの姿勢でのそのそ移動して眼鏡をかける。目ヤニのせいで目が開きにくい。
 ベッドに腰掛けるような体勢になってから立ち上がる。スリッパを履くのも面倒だし、床はひんやりしていて気持ち良い。置いてあるもこもこのスリッパは冬は暖かいが、夏になれば夏炉冬扇。だからスリッパは履かずに床の冷気で少しでも身体を冷やしたい。ああ、この冷気は名残惜しいが、エアコンの紐を引っ張りスイッチを切ってから部屋を出よう。紐……そう、紐を引っ張って弱・強・切を設定する。最近のエアコンは自動で温度を調節してくれたり人のいる方向にだけ風を送ったり出来るのに、この木で作られていて室外機がやたらとデカい古風なエアコンはなんだ。骨董品か。いい加減新しいのに変えたい。それに家計が火の車なわけでもない──具体的に言えば私が一切外で働かなくても全然暮らしていける──程度に余裕はあるんだから、今日か明日あたりにあの人と相談して車を飛ばして30分のショッピングモールに行こう。

__________

 2階の寝室からキッチンへ向かうためには階段を降りなければならないが、その階段の隣、開けっ放しのドアの前で立ち止った。書斎に繋がるこのドアは、家を建てるときは小さい部屋故にエアコンをつけるかどうか悩んで結局つけなかったらしく、夏場はブラインドをかけた窓と入口のドアが全開にされ、扇風機で空気がかき回されてている。
「おはよ」
 ドアの敷居から1歩踏み入れたあたりで、寝起きと疲労のせいでやや掠れた声で呼びかける。机に向かい黒のシャーペンを走らせていたその人は原稿用紙の上にペンを置くと、こちらを向いて微笑む。
「おはようございます。しっかり寝れたかな?」
「うん、もう、そりゃあ。死んだようにぐっすりと」
「夜勤明けは辛いだろうね、私も締切前の追い込み期間はよく徹夜するからその気持ちわかるよ。下準備はしてあるから食事にしよう」
 そう言いながらその人は椅子から立ち上がり、キッチンへ行きましょうと言いながら部屋の外へ出るように指差してジェスチャーする。私はそれに従って空っぽの胃をさすりながら小走りに階段を降りた。夜勤明けの日はお昼ご飯を私が起きるまで我慢してもらって、私が起きたら食事をして、その後は夜まで好きなことをする。因みに今日はエアコンの買い替えを相談するためにショッピングモールへ連れ出す予定だ。食事中にでも交渉しよう。

__________

 緑色のクッションが置かれた柔らかい茶色の椅子が、椅子と同じ木材で作られたテーブルを挟んで向かい合わせになってる。そのうちの1つに腰掛け、テーブルに置かれたサイフォンをじーっと眺める。目やにのついた寝起き顔、眼鏡、すっぴんにボサボサの髪の毛を、せめて髪を梳かし1つに束ねて顔を洗っている間に用意されたのだろう。アルコールランプで沸かされてコポコポと湧き上がるコーヒーはじっと見てるだけでも飽きない。美しいサイフォンと同列にしてしまうのは無粋だが、ドラム式洗濯機を永遠と眺めてられるのと同じ感覚だろう。楽しい。
「燈華さん、カップ取ってくれるかな」
 キッチンから少しだけ張り上げた声で呼びかけられる。「お土産のスープカップでいい?」と訊くと「そうですね。あとパンのお皿も持ってきてください」と返されたので、私の背より少し高い食器棚の扉を開け、ちょうど目線のとこにある柔らかい黄色のスープカップと、青い模様がはいったパン皿を2枚ずつ取る。カップはあの人が北欧だかどっかのお土産に買ってきたものだ。割れ物なのにうっかりスーツケースに入れて預けてしまったから割れないかとヒヤヒヤしたが、無事割れずに戻ってきた武勇伝持ちのカップでもある
 その皿を持ってシンクに向かい、ササっと並べると手際よく料理が盛り付けられた。
「わ、クレープじゃん。おいしそ」
 パン皿に盛り付けられ、ボウルにあったサラダをのせたクレープ。それと赤いスープはミネストローネだろう。
「それはクレープじゃなくてガレットだよ、小麦じゃなくて蕎麦で作るんだ」
 はは、と笑いながらしたり顔で言われる。ガレットってなんだ。男3人女2人の男所帯寄りの家で育った私には少々お洒落過ぎる言葉だ。近所のショッピングモールにあるオシャレカフェにもそんなメニュー無かった。
「私の人生で1番縁の無かった言葉だよ……そうか君はガレットっていうのね……」
 皿に盛られたガレットを片手に1枚ずつ、両手で2枚を持ちリビングのテーブルまで運ぶ。未知の食物との遭遇は心躍らせるものだ。まぁ中身は蕎麦粉らしいので完全な未知ではないが。
 私は未知の食物をテーブルに置くと、サイフォンの近くに伏せてあった色違いのコーヒーカップを上向きにする。オレンジが私で薄緑があの人の。料理もコーヒーも、この食事に関して全部任せるのも申し訳ないけど、サイフォンでの抽出はいつになったら終わりかわからないので、これ以上コーヒーにはノータッチ。勉強しようとしたことがあったが、私にこの本格派のサイフォンは難しすぎた。多分指一本触れただけで破壊する。
「サイフォンは見てるだけでも楽しいよね」
 キッチンから来たその人はスープカップをコトン、とテーブルに置きながら言った。音をたてずに椅子をひいて腰掛けるとサイフォンのろうとを外し、私が上向きにした色違いのカップへ注ぐ。
 ふんわりとしたコーヒーの香りに表情筋が弛み、穏やかな溜息のあとにいい香りの空気を思いっ切り吸い込む。100円のコーヒーと5000円のコーヒーの違いもわからないくらいにコーヒーに関しての知識と味覚は無いが、これがとてもいい香りだということだけはわかる。それに何年も自分でコーヒーを淹れ、自分好みの味の研究をし続けたこの人が淹れるなら美味しいに決まってる。毎日変わらない、いつもの香り。
「いただきますッ」
「頂きます」
 ランチョンマットの上に並べられ皿とカップを三角に並べ、手を合わせる。まず最初にコーヒーをひとくち。苦い。でも嫌な苦さじゃない。優しい苦さだ。

__________

「じゃ、行ってきます! いくら締切前でもちゃんとご飯食べて5時間は寝てね!」
 午後3時、下駄箱に入れず土間に出しっぱなしのクロックスに足を突っ込みながら、玄関から1階上の書斎まで届くように大きな声で言う。通勤ならちゃんとした服装がどうのこうの言われそうだが、パンプスで車は運転出来ないし、どうせ職場で着替えるのだから、最近はTシャツ短パンクロックス。こんなラフな格好で通勤出来るなんて快適極まりない。しかも夜勤組は、余程美意識の高い人でないかぎりノーメイクだから化粧もしなくていい。少し頭が痛いことを除けば夜勤に向かうのにベストな体調なんだ。
 はぁ……健康という言葉が似合い過ぎてる私なのに、なぜこんなに頭がガンガンするんだ。昨日は昼過ぎに朝ごはんを食べたあと、締切がどうこうっていうのをちょっとだけ無理矢理押し切って、エアコン買いに行く名目でデートに行ったのが駄目だったか。あの人の担当さんが「締切前にデートですか……余裕綽々なんですね……祟りますよ……」なんて思いながら怨霊を飛ばしてきた──のは違うな。
 頭痛の本当の原因、きっと、家電屋で意外と時間取られて夜になってしまったので、デパートの近くに新しくできた雰囲気良さげなレストランバーで食事をした。多分そこだ。平素カクテルなんて飲まない私だったが、そこの店のがあまりに美味しかったので……そう、マスターの腕が良かったのが悪い。あのカフェ・グロリアは七つの大罪の1角に足して八つの大罪にしてしまっても問題無い。人間をダメにする。翌日また夜勤だということも忘れて飲みすぎた。
 お陰でギリギリまで寝てたのにまだ頭が痛い。マスター憎む。腕の良すぎるマスター憎む。カフェ・グロリアなんて見てて楽しい飲んでも美味しいものを生み出した人も憎む。頭痛を鎮めるために二日酔いの薬は飲んでおいたが、ちゃんと効いてくれるだろうか……。これから16時間病院に拘束されるのだし、効いてくれないと困る。
 ドアを開けると外の暑さと室内の涼しい空気が混ざって変な感じになった。急な温度変化と、声を張った反動でガンガンする頭をさすりながら、後ろ手に引き戸を閉める。家の鍵は持っているが、きっとあの人が水を飲むかトイレ行くついでに閉めてくれるので開けっ放しでいい。こんなド田舎まで盗みに来る人なんていないだろう。家の鍵と同じキーホルダーでまとめてある車のリモコンキーのボタンを押し、ローン真っ只中の水色の軽のドアロックを解除する。
「ちゃんと寝てくれるかな……」
 一応さっき警告はしたが、今更不安になってきた。年も年だし、原稿はササっと仕上げてササっと寝てほしい。担当さんもあまりいじめてやんないでほしいけど……まぁそうもいかないか。
 運転席に座りシートベルトをかけ、キーを差してエンジンスタート。今日もお仕事頑張って、明日のお昼はまた一緒に食事だ。
 いつものコーヒーを楽しみにしながら、FMラジオを聞き流し職場の病院へ向かう。

__________

「はー……疲れ、た……」
 頭痛を抱えながらの夜勤は辛かった。いつも夜勤帰りの運転はかなりふわふわしながらだが、今夜──もう日が高いから今朝はいつも以上にふわふわしてる。ふわふわしたまま田んぼを突っ切るような道路を通るが、いつ落ちてもおかしくない。そろそろ落ちてしまうか、納車して1年も経たないのに落ちてしまうのか。
 今日は一昨日のようにイレギュラーも無かったのでちゃんと仮眠も取れたが、何故かいつも以上に疲れた。さっさと帰って、もう今日は風呂も入らなくていいからさっさと寝よう。
 この田んぼゾーンを抜ければ家まであと少し、そう、あと少し……早く帰って寝たい……。はぁ、眠い……。もう何粒も噛み砕いたメンソールのど飴と朝9時の真夏の明るさだけが頼りだ。────田んぼに落ちるのだけはホントに勘弁。

「やっと着いた……」
 車をガレージに押し込み、フラッフラの足で玄関まで歩きインターホンを押す。チャイムの音がして、すぐに鍵が開けられいつもの優しい顔がそこにあるんだ。
 ────なのに、今日は開かない。返事もないしどうしたんだろう。とりあえず引き戸を開けてみたら鍵はかかってなくてすんなり開いた。全く、私が家にいない間に外出したのなら帰ってからちゃんと鍵をしてくれないと。まぁ施錠しないで家を出た私が言えたことじゃないが。
 靴を脱いだら揃えもせずに階段を登る。いつもならお風呂に直行して雑に身体を洗って即就寝だが、今日は風呂の行程はカットだ。すぐに寝たい。手すりに思いっきり寄りかかりながら重い足を無理矢理に重力に逆らわせ、1段1段登る。あと少し、あと少しでベッドだ。
 階段を登りきるとすぐ隣に書斎に繋がるドアがある。そういえば、さっきチャイム押しても返事なかったし、寝てしまったのだろうか。ちゃんと布団で寝てくれないと身体に悪いって散々言ったのでまさか机で寝るなんてことは無いだろうが、一応覗いてみよう。執筆に集中し過ぎて音が聞こえなかったこともあるだろうし。集中してて邪魔になりそうだったらちょっとだけ覗いてすぐに消えよう。そして寝よう。
「──って、あーあー、ちょっとちょっとー……流石に床で寝るのはダメだよ……確かに床はひんやりしてるから気持ちがわからないでもないけど。ほら、起きて起きて」
 まさか床で寝てるとは思わなかった。バックを入口に置き近くにしゃがみ、バシバシと肩を叩く。床で寝たら身体痛くなっちゃうから布団で寝て、とお願いしながらバシバシ。バシバシ。
 バシバシ。
 バシバシ。
 バシバシ。まだ起きない。
「いい加減起き、て」


「────まさか」



 一気に血の気が引いた。眠気なんて吹っ飛んでしまった。身体を仰向けにし手首を強く握り、腕時計の秒針を見ながら脈……脈すらも無い。まさか。いや、そんなはずは。
 部屋の入口に置いたバッグからアイボリーのケースのスマホを出し、119番をコールする。
『はい、こちら────』
「救急です! 夫が倒れています! 68歳男性、脈は無し、AEDも近くに無いので──」
『わかりました、すぐに向かいます。あなたのお名前と住所、その場所の目印などあれば教えてください!』
 電話を取ったのは若い声の男性だった。つい反射的に症状を早口で言ってしまったが、そうだ、助けてもらうにも場所を知らせなければ。
「えっと私は富樫燈華、ここの住所は千葉県銚子市──鉄塔の近くにある青い瓦屋根の家です!」
『わかりましたすぐに向かいます、もしかして医療関係者の方ですか? 到着まで胸骨圧迫を続けてください! いいですか、落ち着いて、焦らずに、です!』
「落ち着いて……」
 電話で声を出したときから何故か涙が止まらない。電話越しの男性は嗚咽混じりの声からきっとそのことに気付いていた。ああ、私は人生でかつてないくらい焦っている。でも、そうだ、落ち着くんだ。人の命を助けるには冷静にならなきゃならないんだ。胸骨圧迫なら大学で飽きるくらいやった、1分に120回の速さも身体に染み付いてる。大丈夫、大丈夫、私ならこの人を助けられる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。
「待っててね、すぐ助けるから……」


__________

________

_____

___

__

_

.




  間に合わなかった。死亡推定時刻は午前3時、発症から1時間以内に死亡することが多い心筋梗塞において、私があなたの異変に気づく9時までの6時間は長すぎた。私が見つけたその瞬間、助からないことはほとんど決まっていた。普段、他の人を看るときなら内心どこかで諦めるくらい、蘇生の可能性はゼロに近かったのに。ただ自分に近い者だからって蘇生の確率が上がるわけでもないのに、なんで、あんな中途半端な希望なんか。

 ……せめてその瞬間くらい隣にいたかった。

 あまりの苦しさにもがき続けたのだろう、紙で散らかった作業机やズレてしまった家具。お気に入りの鉛筆だって芯が折れてる。
 ──そうだ、これが、死。母方のおじいちゃんは私が産まれる前に死んだし、おばあちゃんだって物心つく前に死んでしまった。大好きなおばあちゃんの葬式でも、母に言われるがまま手を合わせ、「なんでママは泣いてるの?」と問うた。父方の祖父母は合ったことすらない。
 ああ、死とはこういうものなのか。親の死よりも前に、最愛の人の死を味わってしまうのか。
 悲しい、苦しい、涙が止まらない。救急車に同乗してここから1番近い私の勤務先でもある病院に駆け込んだが、やはりどうにもならなかった。夜勤明けにショックだったろうね、と先輩の看護師が仮眠室を空けてくれたが、私はどうしても、ほんの少しだけでもいいから、あの人の匂いが残ってるうちに帰りたくて、同僚に送ってもらって帰ってきた。
 あの人の匂いがするベッドで泣き続け、やっと涙が出なくなって、気づいたらもう15時。真昼なのに、私にとっては夜明け。

 私の夜明けは午後3時。
 貴方の夕暮れは午前3時。

 そうだ、コーヒーだ。あの人が好きなコーヒーを飲もう。
 太陽が傾きはじめた真昼の太陽に目を細め、安いインスタントコーヒーの入った瓶からティースプーンで2匙。ふたつ並べた色違いのカップへコーヒーを淹れる。それは瓶の半分も使っていない、長い間蓋すら開けてないし、開封前での賞味期限も先月に切れた、あの人が淹れるサイフォンとは別物の、まずいコーヒー。
 コーヒーの味なんかまったくわからないはずなのに、豆の違いや淹れ方で変わる味なんかまったくわからないはずなのに、なんで。あの優しい苦さと、このただの苦さの違いがわかってしまうの。毎日美味しいコーヒーなんて飲んで舌を肥やすんじゃなかった、こんなとこで孤独になるなら幸せな苦味なんて知るんじゃなかった。
 ……きっとコーヒー好きのあの人はこんな安っぽいの飲めないから、香りだけで手に取るのを躊躇ってしまう。そうだ、飲むのが嫌だから、空になるのは片方だけで、もう片方のコーヒーは全く減らないんだ。

 減らないコーヒーの水面を椅子に座ってじっと見つめる。誰の手にも触れられない、誰かが口をつけるはずもないそのコーヒーを、ずっと。ずっと。


←BackHome