純情ブルー

いよ



 私の朝は決まっている。

 未明に起きて、愛用のランニングウェアに着替えて、適当に支度をして家から五分ほどの海辺を走る。
 遮る物のない防波堤を規則正しいリズムで走りながら、体も世界も目覚めていくのを全身で感じるのは気持ちが良いのだ。薄青いだけだった空に、徐々に橙が混ざっていって、海と空の境界がはっきり浮かび上がってくる。視界いっぱいが鮮やかな色に染まるほど気温も体温も上がっていく。夜明けというのは、特に変哲のない生活を送る私にとって一つ特別なものなのだ。兄に言わせれば「お堅い芳乃にしては意外にロマンチスト」な考えらしい。言外に可愛げがないと言われたが、私だって一応十七歳の女子高生で、胸がむずむずしたりきゅんとしたりすることは好きなのである。
 十五分ほど走るころにはすっかり太陽が顔を出していた。徐々に速度を緩め徒歩へ変えながら、私はなおも防波堤を歩いていく。
 横に広がる透明な水面が眩しい。光を弾いて波間を煌めかせる海はたっぷりと辺りに満ちていて、穏やかな潮騒が絶えず耳を楽しませた。
 ぽてぽてと歩いていけば、夏には海水浴場として賑わうまあまあ綺麗な海なので、海の家があるし更衣室やシャワールームの設置された建物もある。まだ海開きがされていないためぽつねんと放置されているそれらを横目に、五分もすればやわらかな色をした木製の建物が見える。
 ――海の家みたいな顔をしてるけど、かき氷も焼きそばもないれっきとした喫茶店だよ。
 とは店主の言葉だ。かき氷も焼きそばもある喫茶店だってあるだろうし海の家のアイデンティティってそこではないと思うんだけど、と突っ込みたいところは色々あったが、陽気な三十路の男が経営している喫茶店である。
 潮風に耐えられるように加工してあるというチョコレートより明るい色味の扉には、まだクローズの看板。当然だ。モーニングも提供しているから七時半に開店するが、今はまだ六時半。
 私は汗を拭いてから、ノブに手をかけて『カランコロン』のドアを開けた。ちなみに『カランコロン』という名前は店主が意気揚々とつけた名で、曰く響きが親しみやすいからなんて安易な由来だ。
「おはよう、リオさん」
 ふわりと風圧と一緒に流れてきたのは、潮と、コーヒーの香ばしい香り。
 私の朝は決まっている。
 夜明けの海辺を走り、一杯のコーヒーを飲み、一日を始めるのだ。




 ただし、今朝はいつもと少しだけ事情が違う。

「おっはよう、芳乃ちゃん」
 ドアを開けると、カウンターの向こうから朗らかな笑顔と声が飛んできた。にこっと音がしそうな笑顔は完璧だ。イタリアの血が半分混ざっているという彼は、笑うとくっきりえくぼができるチャーミングなイケメンで、地元のおばさま方には大変な人気である。もちろん若いお姉さま方からも黄色い声はあがるけれど、カランコロンは地元密着型で年中開店している喫茶店だから、当然来店頻度は近所のおばちゃんの方が高い。常連さんの中には、リオさんのコーヒーと巧みなトークと目の保養に来てくれる人もいるくらいだ。
「今日もいい天気だね。先週までの雨が嘘みたいだ」
 テノールの朗らかな声は微かに掠れているものの、いつもと変わらぬ口ぶりなので私もにこやかに会話に乗った。
「そうだね。この調子だと、海開きもいつも通り出来そう」
「うん。遅れると売り上げにも影響が出るから、実のところひやひやしてたんだ。そういえば、芳乃ちゃんの出るマラソン大会も近いんじゃない?」
「再来週」
「再来週か。そのころには梅雨開けしそうだから安心だね。僥倖、僥倖!」
 吹き抜けの高い天井と天窓、海に面した壁側に張られた一面のガラスから朝の透き通った光が差し込んでいて、室内は外と変わらないほど明るい。雨の日だとこうはいかず、処々に吊られた橙色の電球によってセピア色になる。それはそれで好きだけれど、やっぱり太陽光が一番だ。
 緩やかに回るファンが、まだ付きはじめの冷房の空気をほどよく混ぜている。カウンターの奥で店主のリオさんが手際よく淹れているコーヒーが、胸をすくような良い香りを漂わせた。
 海辺のカフェ、カランコロンの朝はこんな風に清々しくて心地が良い。開店前の、人の入っていないお店は純粋なもので満ちている。女子高生が朝から贅沢をするのはちょっぴり気が引ける反面、やっぱりうれしいことに変わりはない。
「はい、どうぞ。今朝もお疲れさま」
「ありがとうございまぁす! あれ、このグラス初めて見た」
「夏の試作品だからね、グラスから変えてみたよ」
「そうなんだ。では、いただきます!」
 私は足の長いスツールに腰かけて、漂う香りを肺いっぱいにすいこんだ。
 カウンター越しに出されたのは一杯のカフェラテ。
 多角形型のグラスは小ぶりで、切子というんだろうか……上の部分だけわずかに花のような柄が切り込んであって見た目からして涼し気だ。そこにミルクとコーヒーが注がれていて、からころと氷が揺れている。あらかじめ冷やされたグラスは、当然結露はふき取ってあるものの、触れるとひやりと指先が冷たくなった。
 分離されていたミルクとコーヒーを混ぜて、ストローに口をつける。よく冷えたカフェラテは、口の中できちんとコーヒーの香ばしさが主張されて、ちっとも生臭くないミルクのまろやかさとよく合っていた。
 いつもと違うことといえば、
「……はちみつ、入ってる?」
「そう! 正解!」
 舌の上で味わいながら聞くと、リオさんは笑みを深めた。
「今まで使っていたはちみつがアイスだと固まってしまうから変えようと思って探していたら、農家の人に美味しいマロニエのはちみつをもらったんだ。マロニエは甘くて口当たりがいいんだけど、ちょっとだけ癖があるからね。芳乃ちゃん、これ舐めてみて」
 差し出されたのは金色のティースプーンで、スプーンの金色なのかはちみつの色なのかわらかないけれど、光を透いてきらきら輝くそれは宝石みたいだった。遠慮せずにぱくりと含む。
「うわ、甘い! 甘いのに、べたべたしてない!」
「でしょ? 花の香りは残っているけど、それ以上に果糖が多い。僕の淹れるコーヒーは深煎りだからね。しっかり甘い方が相性はいいんだよ」
 確かに今まで使っていた他のはちみつはどれも植物のくさみがあった反面、これは甘さが一番に引き立っているように思えた。
「夏場はあんまり濃いものは好まれないとわかってるから、はちみつの量は悩むところなんだけどねぇ。どう? 多い?」
「うーん、ちょっと多いかも。これぐらい濃いなら、グラスの三分の二ぐらいで飽きちゃう人いるんじゃないかな。私は嫌いじゃないけど」
「そっか、僕の舌は濃い味好みなんだなぁ。ありがとう、やっぱり芳乃ちゃんは頼りになるよ」
 そういいながら眉を下げてはあ、とため息。しゅんと垂れ下がった耳が見えるようだった。そのため息も表情も随分重いのは、彼が表情豊かであるだけではない気がした。
 小さいとっておきのグラスになみなみの甘いカフェラテ。
 自慢ではないが、私の舌は目の前のバリスタお墨付きの優秀さである。高校生になり、リオさん直々のスカウトによってここでバイトを始めてから、豆の種類も牛乳の配分ももちろん淹れ方もすぐに覚えてしまった。
 だから、このやけに手の施された試作品に使われている豆も上等のものだと気が付いた。
 これは、リオさんが思い悩んでいる時や考え事をする時に一種の現実逃避として一から全部拘りぬいたものを作ってしまう、癖だ。
「ちなみに兄ちゃんなら『リオのカフェオレは甘くてうまい!』としか言えないと思う」
「……そうだね」
 今まで軽やかだった会話が途端に沈む。意味を含めた私の言葉に気が付いたのだろう、形の良い薄い唇にじんわりと苦笑が浮かんだ。
 本当は切り出すかどうかも迷っていたが、これだけ気張っていつも通りを装おうとされると返って気になるものである。
 私はなるべく、年上を気遣いすぎないような口調を心がけながら言った。
「喧嘩するの珍しいね」
「……初めてだよ、こんなに言葉で殴り合ったの」
 ふー、と大きく息を吐いてリオさんは泣き笑いの顔をした。陽気で、気さくで、チャーミングな人が翳った顔をするだけで私の胸はひどく軋んだ。
 吹っかけておいて何もいえなくなった私は、うん、と馬鹿みたいに頷いて、もう一人の兄のような存在の人がーー兄の恋人が、兄とのことを話すのを待った。

 兄とリオさんは付き合っていて、恋人同士である――一応。
 一応というのは、なんというか、あの二人は世間一般のいうところの『恋人』とは違うような気がするからだ。
 紹介された時、二人はただの友人だった。そもそも私の兄は、真面目と元気だけが取り柄の鈍くさくて昇進できなさそうなタイプで、それとはまったくの正反対の太陽のように眩しいイケメンを連れてきた時には目をむいた。一体兄とどうして友達になったのか、それはまた別の話になるがとりあえずリオさんはどうやら兄の素直さ―私は馬鹿なだけだと思う―が気に入ったらしい。
 リオさんは気さくな人だった。二人暮らしの私たちを憐れむ風などこれっぽっちも出さず、よくうちに遊びに来て食事を振る舞ったり軽く家事を手伝ったり、遊んだり、気遣いの細やかな人だった。そのくせ感情も感情表現も豊かで、急に子供っぽく拗ねたかと思えば些細な事で大笑いする。イタリア人の性だから女の子に親切にしちゃうのはしょうがないよ、といいつつしょっちゅう私にプリンを作って甘やかしていたのを兄にばれてなんと兄が拗ねたことがある。その時はもう機嫌を直そうと必死で、主人に構ってほしい大型犬みたいでかわいかった。
 それから四年が経って兄は社会人に、元々三つ年上で、都市部の喫茶店で働いていたリオさんはちゃっかりこの土地へ引っ越してきて店を構えていた。そして本当に不意に、酒を飲んで帰ってきた兄に、「リオと付き合ってるんだけどさあ」とあっけなくカミングアウトされてしまった。
 驚いたものの、特に違和感がなかったのはリオさんがそういう性格だったことと、あまりにも二人が自然に生活していたからだ。アクション映画で盛り上がったり、かと思えば近くの犬が可愛かったとあくびのでそうな会話をしていたりと、なんだかんだ二人は馬が合っていた。お互いに仕事を始めてからは家で会うことがほとんどなくなったけれど、毎週日曜日は必ず二人は会うと決めていて、なのに律儀な二人は食事は三人でとろうと言いだすから、一瞬頷きかけて首を振った。付き合っていると知っている二人の間に水を差すマネはしたくなかったが――でも、なんとなくリオさんは家族の一員のように思えていたからいいかな、とも思ってしまったのは内緒だ。
 とにかく、私からみた二人はまるで幼馴染みのごとく仲の良い友人であり家族のように見えた。実際に二人きりの所を見ていても、私のようなティーンの知る、甘酸っぱくてキスするだけで胸が高鳴るような恋人同士のそれとは少し違っている気がした。安定感がある、というか。
 だから、しょっちゅうしていた口喧嘩ではなく、お互いに心のすり減る痛ましい喧嘩をするのは珍しかった。
 昨晩、兄が目を腫らして帰ってきたときはぎょっとした。酔っていたし元々涙もろい性格ではあったが、ここ数年では映画や小説以外に泣いている所を見たことがなかったから尚更だった。兄はソファにぐでんと伸びたかと思えば、冷蔵庫からビールを取り出してぐすぐすと鼻をすすりながら飲んで、ずっと「リオが、リオが」と言っていた。
 兄とは六つも年が離れているし、年上カップルの喧嘩に口を出したところで余計なお世話になるのは知れていたけれど、こうして切り出してしまったからには仕方がない。

 リオさんは深く呼吸をして、かちりとコンロに火をつけた。銀製のヤカンには元々お湯がいれてあったのか、すぐに小さく湯の沸き始める音がした。
「言い方を間違えたんだ」
 くすんだ顔で、ひどい隈をこさえた目をぱしぱしと瞬かせてリオさんは言った。
「和吉が『リオは俺と結婚したいとは思わねえの?』って聞いてきたから、積極的にしたいとは思ってないよって」
「……うわあ」
「大間違いだよね」
「私でも、一言目がそれは傷つくかも」
「当然。でも、そのあとに説明したよ。僕は今のままでも十分満ち足りているけど、和吉がしたいと思ったらする気だよって」
「……」
「……この流れで言うのもどうかと思うけど、芳乃ちゃん美人だからそういう顔すると迫力あるなあ」
「リオさんっ」
 ごめん、と弱々しい呟き。挽いてあった豆をフィルターに入れ、とぽとぽとお湯を注ぐ。深くて濃い豆の芳醇な香り。砂糖をスプーン一杯いれてかき混ぜた。無表情に一連の作業をするのを見て、きっとこの甘いカフェラテもこういう風に作ったんだろうと姿が浮かぶ。流れが身に沁みついているから、作業としていつもと何ら変わらないのに、今はほんの少しだけ手付きが雑に見えるのが痛々しかった。
「……和吉は、何か言ってた?」
「ソファでずっとわけわかんないこと言ってたんだけど、『俺たちは行き止まりなんだ』って言ってたのは覚えてるよ」
「行き止まりかあ。そうだね……」
「どうして行き止まりなの?」
「うーん……僕の望むものが小さすぎるから、かな」
 恋人が恋人に望むことって、それは当然相手からの愛で、その方法はたくさんあるのだろう。それの大小とは? と、よくわからないので首を傾げた。
「僕の幸せは本当にささやかなんだ。あまり理解してもらえないけど、僕は和吉と過ごせる日常があればそれでいい。本当にそれだけでいい」
「……無欲すぎない?」
「そうかも。故郷の友人にも本当に驚かれるし、父親なんかは渋い顔をしたけど、誰かにああしてほしいこうしてほしい、っていう意識が僕は薄い。なんでかはわらかないけどね」
「……」
「僕はね、芳乃ちゃん。こうやって平日の朝に芳乃ちゃんとおしゃべりする時間が大好きだよ。女子高生ってすごいよね、すごく毎日がキラキラしてる。あんな人のこんなところにドキドキしたとか、あんな素敵なものがあったとか、日常にたくさんの発見があって僕はそんな話を聞くのがすごく好きだよ」
 でもね、と続けるリオさんは水面をじっと見つめながら凪いだ声で続けた。
「君と過ごす時間も、コーヒーも、和吉と過ごす日曜の朝の三十分には敵わないんだ。僕は元々コーヒーが好きだし、自分の淹れるコーヒーは美味しい自負もある。一番好きなのはエスプレッソだけど、アメリカンだってお客さん好みにばっちり淹れられる。けど、どんなに舌の肥えた人に偉大な賞や言葉をもらったって響かない。大事な芳乃ちゃんと楽しい話をしても、味を褒めてもらっても、僕のコーヒーを缶コーヒーと比べるような彼と穏やかな日曜日に朝日を浴びながら、一緒にコーヒーを飲んで『うまい』と言われるのには到底敵わない。それはこの世で最高の言葉で、それ以上はいらないよ」
 僕の最大幸福は、それだけなんだ。
 カラン、グラスの中で氷が溶ける。
「僕は繋がりや証明がなくてもかまわない。和吉と過ごせる朝があるならそれでいい。僕は彼が穏やかに過ごせる場所で在りたいだけだから」
 敬虔なクリスチャンのようだと思った。
 陽気な太陽の人だと思っていたのが、ひっくり返せばこんなに健気で謙虚な人だとは思わなかった。特に、イタリアの男の人は気障で格好つけたがりだという偏見は長年で拭ったとはいえ、ここまで無欲で献身的だなんて気が付かなった。
 もしかしたらこの人は友達のままでも良かったのかもしれない。告白したのは兄だと聞いた。そういえばその時も、リオさんは随分奥ゆかしかったらしく「絶対リオの方が先に好きだった、でも形にするのを怖がってたみたいだった」と後に兄は言っていた。それは同性同士だからだと思っていたが、どうやら違うらしい。これはリオさんの人格の問題だ。
「今のご時世、条件がそろえば結婚も妊娠もできるかもしれない。でも僕は確固たる証明にすることで、いつか離れたくなるかもしれない和吉の枷にはなりたくないんだ……おかしいかな」
 ぎゅっとカップを握りしめて、最後だけそんな風にいうのはずるい。三十一歳の、見目にも才能にも優れた男が道に迷った子供みたいな顔をしていた。
「おかしくないと思う。兄ちゃん馬鹿だから、お酒の勢いもあって最初の一言だけ聞いて勘違いしただけなんじゃないかな。ごめんなさい、私も勘違いしかけたもん。どうせそのあとに、わけわかんないことまくしたてて一人で爆発したんじゃない? 兄ちゃん」
「…………さすが妹」
 私が一息に言うと、ようやくリオさんの表情がほぐれた。どうやらその通りだったらしい。
 俺たちは行き止まりなんだ、という言葉の意味が分かった。きっと二人はこれ以上に求めあうことが出来ない。心的に。
 けど、行き止まりだからこそ、たったひとつの朝を愛おしんでいるのは素敵だと思う。日々のなんでもない、スナップ写真のようなワンシーンを誰かと過ごして、それが特別になるのは――胸がきゅんとして、とてもとても、素敵なことだ。さすがにこんなことは言えなくて、私はちびりとカフェラテをすする。
 カップを傾けてこくりと一口コーヒーを飲んだリオさんは、少しだけ口元を緩めていた。
「昼間はさすがに会えないからね、夜にでも会うか電話するよ。本当は今がいいんだけど、きっと起きていないだろうし忙しいだろうから」
「うん、私と違って朝めちゃくちゃ弱いからね」
「知ってる。コーヒー飲みながらまだ寝てるからね、和吉」
 二人暮らしの中で、朝食当番は必ず私だ。兄の帰りが遅いから、というのもあるけれど、昔から低血圧の兄は朝ごはんを食べようにも口が動かないといってスープくらいしか手につけない。
 きっとリオさんの家に泊まっているときも、こんなに美味しいコーヒーを半目でちょびちょび口にしているのだろう。隣でリオさんがからから笑っている姿が目の裏に浮かんで、私は笑った。
「いいなあ兄ちゃん、こんなに大切に想ってもらえて」
「そうかなぁ。僕は、やっぱり無欲すぎてがっかりさせちゃってるんじゃないかと不安だけど」
「そんなことない。ああ見えて兄ちゃん、一途な人には弱いんだよ。リオさんの言葉聞いたら、うっかりまた惚れ直しちゃうかも」
「大げさだなあ」
「ほんとほんと。だって兄ちゃんも、本当はリオさんが傍にさえいてくれたらいいって思ってるよ」
 これは蛇足だっただろうか。自分で言いながら、言葉に薄っぺらさを感じて、誤魔化すようにすっかり氷の解けたカフェラテを飲み干した。さすがに水っぽくておいしくなかった。
 私は、ごちそうさまでした、とグラスをカウンター越しに渡す。
 リオさんは大分マシになった顔をしながら受け取った。
「朝から辛気臭い話をしちゃってごめんね。お詫びに、今度アップルパイ焼いておくから」
「ミートパイでもいいよ」
「ミートパイ、芳乃ちゃんも好きなんだっけ?」
「ううん。兄ちゃん。兄ちゃん、『おかずっぽいアップルパイみたいなやつまじで美味かった』って言ってたから、焼いて食べさせたら機嫌直るよ」
「おかずっぽいアップルパイかぁ……和吉の舌より僕の腕に自信なくなりそう……」
 バリスタの恋人には忍びないほど、兄は味音痴なのである。私は能天気に笑って、ドアノブに手をかける。
「うん。じゃあ、私行くね。あっ、シフトは明日中にちゃんと送ります」
「はいはい。いってらっしゃい、芳乃ちゃん。話聞いてくれてありがとう」
 カウンターから出てきたリオさんは、大きな手で私の頭を撫でた。ゆったりと目を眇めて見下ろす格好にふっと兄の面影が見えた気がして、温かいものが胸を擽る。
「いってきまぁす」
 テノールの声はハリを戻して朗らかで、陽気なカフェのマスターのそれだった。

 たまに、今みたいにリオさんは私を年下の女の子として扱う。恋人の妹でも、一人の女でも、客でも、店員でも、なんでもなく何も知らない未熟な少女として。
 それがほんのちょっぴり、私には悔しいところだ。
 だって事実間違いではない。私は恋だって自分からしたことはなく、漫画やドラマや物語の世界にあこがれるだけだ。だから彼らがどれだけ苦悩したって、朝のささやかなひとときに幸せを感じていたって――私の知らない『恋』をしていたって、実感がわかない。
 だからまだまだ私は女の子なんだろう。

 外へ出ると、雲一つない青空が広がっていた。からりと乾いた風が心地よい。七時を過ぎた澄んだ潮風が首筋を撫でていく。それが気持ちよくて、私はまた少し駆けだした。
 兄のことを語るときに見せるリオさんはいつもどこか切なげで、愛おし気で、こちらがむずむずしてしまう。でも、いつかあんな風に人に愛されてみたいと思ってしまったから仕方がない。
 いいなあ兄ちゃん、と呟いた本音は朝の喧噪に紛れて消えた。

 終

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