花の中のツクシ

佐倉愛斗



 花の中のつくしは周りとは少し違うかもしれない。それでも、自然だ。
 はらっぱでたたずむつくしは、小さな花たちの中で風変わりな姿をしている。
 それでも調和しているこの世界が、俺は好きだ。
 郊外の住宅地の中にあるカフェ「マタリ」のカウンターの中からはコーヒーを嗜む人々が集う全十一席の店全体とその奥に広がるテラス席と庭が見える。庭を見やると、ツクが庭で色とりどりの花々と遊んでいた。丁寧に雑草を抜いて、育った花を植え替えて、伸びすぎた枝を絶つ。彼によって作られた庭はいつ見てもみずみずしく輝いていた。
 ツクがテラスから土にまみれた素足で店に入ろうとした。
「ツク、手と足を洗っておいで」
 ツクはその言葉に一旦テラスに出て、脇の水道で手足を洗っていた。俺はコーヒーカップを磨く手を止めてタオルを持っていくと、少しツクの爪が伸びて土が挟まっていた。ブラシで丁寧に中まで洗ってタオルで水分を拭きとると、ツクは満足そうに綺麗になった指先を眺めていた。また爪を切ってやらなくてはと俺は思った。
 ツクは店の中を進み、五席あるカウンターの一番端に腰掛ける。
 カウンターでグアテマラを飲んでいた常連客の婦人が話しかける
「こんにちは、筑紫(つくし)くん」
「こんにちは、筑紫くん」
 ツクが抑揚なくそう返事すると「はい、こんにちは」と婦人は目を細めて笑った。
「筑紫くんは見る度可愛らしくなるわね。そのあたりのモデルさんよりずっと綺麗よ」
 婦人は「若いころの麻里(まり)さんにそっくりだわ」と続けた。
 丁度正午、ツクは朝に作っておいた弁当を食べ始める。今日はツクの好きなかぼちゃコロッケが入っている。ツクは呑気に鼻歌まじりに足を揺らしていた。
「筑紫くん、美味しい? 美味しくない?」
 婦人の問いにツクは少し考えて「美味しい」と答えた。
「そう」
 婦人はまた目尻の皺を深めると、ゆっくりとグアテマラを口にした。
 カウンターから右の壁、あれから飾り物になったアップライトピアノの隣に大きなカレンダーがかけられている。水彩画のやわらかなタッチで描かれた花の下には大きく整然と数字が並んでおり、ツクのデイケアの日には水色で数字が丸く囲われている。
 そして八月二日。明日はオレンジで囲われている。
「筑紫くんは何歳になったかしら」
 婦人の問いかけに俺は「十八になりました」と答える。
「もう三年になるのね」
 まだ乾かない傷がこの店に横たわっていることを、この店の誰もが知っていた。
「テツ、お墓参り明日?」
 お墓の意味を理解していないツクの(まなこ)に、悲しみの色を見つけることはできなかった。

 夜、俺たちはあの日からひとつのベッドで眠っている。
「ツク、していいか?」
 柔らかな草木の香りが染みついたツクの身体は蜜のように甘くて、うなじに鼻を埋めているだけでひどく安心した。
「テツ、触って欲しい」
 本来とは違う使い方をする器官にゆっくりと挿入する。ツクから甘い吐息が漏れる。どこまでも甘い香りの少年だ。律動を繰り返すとツクの鼻にかかった声が響く。
 熱でふやけた少年の瞳が泣いている俺を写す。ツクはどんどん麻里さんに似ていく。麻里さんの面影を求めて触れるのだろうか。分からない。それでも、やめられないのは何故だろう。
 最初はただの悪戯だった。性を知らない少年に好奇心から触れてみた。ただからかってみたかっただけなのだ。人との関係への感情が希薄な少年が、性に触れたらどうなるのか知りたかった。俺も若く、性欲を持て余していた。しかしそれがいつしか、寂しさを紛らわせる行為となっていた。
 これは恋か。いや、劣情と、愛だ。
「テツ、もっと」
 実年齢よりずっと幼く見える無邪気な笑みに俺の雄が叫ぶ。もっと触れていたいと。支配欲と所有欲の狭間で理性が甘い罪悪感を生む。
「俺以外の人とこういうことしたら駄目だからな」
「分かった」
 ツクの艶やかな唇に噛みつく。目尻から落ちる雫は生理的なもので、セックスがもたらす感情を彼が理解できているのか俺には分からない。俺の愛は不毛なものなのだろうか。
「っは……はぁ……」
「ツクいきそう?」
 どろりと蜜を零すツクの中心に手を添える。律動と共に揺れるそれを握ってやるとあっけなく呼吸を止めて吐精する。
 汗で濡れた額にひとつキスを落とす。荒い息を整えるように髪を撫で続けた。
「ツク、続けていい? 俺まだ……」
「十一時半。寝る時間。おやすみ」
「えぇ……」
 挿入されていた俺をずるりと抜いてツクは布団を被って数秒後には寝息を立てていた。取り残された俺は虚しく自分を慰めたのだった。

 俺が従姉の麻里さんに引き取られたのは十五の冬だった。高校入試の二次試験から帰ると両親と妹が亡くなっていた。ストーブが出火元の火事だった。家も持ち物も思い出も家族も、全部燃え尽きて灰になった。遺体のない葬式は花々の表情が暴力的なまでに眩しかった。俺はこの日から花が大嫌いになった。
 親戚の大人たちは俺をどうするかで揉めていた。施設にいれるのか、誰か引き取るのか。俺の命の押し付け合いのようでいなくなりたいとすら思った。家族の死を悼む時間さえ与えてくれなかった。
 そんな中、従姉の麻里さんが俺を引き取ると言いだした。
 親戚は猛反対した。「あなたには障害児がいるでしょう」と。
 ショウガイジというのが俺には分からなかった。車いすだったり、目が見えなかったりするのだろうか。
 それでも麻里さんは、俺を引き取ると言って引かなかった。
 どうして俺を引き取ったのか聞いた。
 麻里さんは俺の問いにただ「寂しかったから」と笑った。
「家族はいないんですか?」
 そう言うと、麻里さんが「そうね。寂しいなんて言っちゃいけないわね」と自嘲的に呟いたのを覚えている。
 麻里さんの家は小さなカフェを経営していた。親の代から続くカフェ「マタリ」は豆とカップにこだわり、麻里さんの作る旬のフルーツを使ったケーキが売りだった。白を基調としており、チェスナット材のフローリングとそのまま続く南向きのテラス席が開放的だった。そしてテラス席の先、花々が輝く庭に、ツクはいた。当時まだ八歳だった。
 俺は荷物――といっても必要だからと親戚に持たされた数着の着替えとその日着ていた制服とスクールバッグだけ――を二階の居住スペースに置くと、麻里さんにこう説明された。
「筑紫は人とコミュニケーションを取るのが人よりちょっと苦手なの。見ている世界も私たちとは少し違う。今の私が正解かは分からないけれど、私がするように筑紫に接してあげてね」
 庭先でツクは花を撫でていた。時折花弁を口に含んでみたり、引っこ抜いたりもしていた。
「ツク、私たちの家族を紹介するわ。羽矢野(はやの)徹志(てつし)くん。そうね、テツくんと呼ぶわ。ね?」
 言葉のボールを受け取って、俺は「徹志です。よろしくお願いします」
 ツクは俺には見向きもせずに手足を土で汚して草木と戯れ続けた。
「ごめんなさいね。まだ人に興味を持つのが難しいみたい。悪く思ってはいないはずよ」
 麻里さんはブラウンの髪をひとつにまとめて、午後の開店準備を始めた。
 テラス席で俺はこの大きな赤ん坊を眺めていた。身体は幼いといえど小学生らしく発達している。でも、挙動はどうみてもおかしい。
 座り込んで草木に触れていたツクが急に立ち上がって店の中に駆け込んだ。麻里さんのエプロンを引く
「ま、ま」
「ん? あら、もうご飯の時間だったわね。って、もー、店の中まで土まみれじゃない」
 麻里さんは濡れタオルでツクの手足を拭いて、カウンター席の一番端に座らせた。アルミの弁当箱を取り出し、ツクの前に出す。
「今日はツクの大好きなかぼちゃのコロッケよ。はい、お手手を合わせて、いただきます」
 ツクは手を合わせるポーズをして一礼すると、小さなフォークで弁当を食べ始めた。
「テツくん、早速なんだけれど、あなたをツクの手足洗い係に任命するわ」
「えぇ……はい」
 居候の身だ。断る道理もなかった。
 モップで床に着いた小さな足跡を拭きながら、足を揺らして黙々と弁当を食べるツクを見た。
「薄気味悪い」
 俺が抱いた最初の感情はこんなものだった。

 俺は冬休みの間、どこへ行くでもなく麻里さんの店の手伝いをしていた。慰めに来る友人たちに会う方がつらかった。失ったものを突き付けられることが苦しかった。だから俺はこの新たな環境に慣れようと必死だった。
 毎日正午になると、庭に出ていたツクは店内に入る。その前に捕まえて、この季節は沸かしたぬるま湯で手足を洗ってやった。
 しかしツクは新参者の俺をなかなか受け入れなかった。暴れて、桶をひっくり返して、俺の頬を引っ掻いた。俺もムキになってツクの頭を掴んで目を合わせてやろうとした。一度も俺のことを見ないことが許せなくて。そんなに花ばかり見ていることが。
 するとツクはさらに大声をあげて泣きだした。甲高い鳴き声は店中に響き渡り、麻里さんが駆けつけて落ち着かせるまでそれは続いた。

「テツくん、やっぱりびっくりしてる?」
 夕食後、あてがわれた部屋に戻ろうとしていたところを麻里さんに引き留められた。
「ツクは一体なんなんですか? 全く俺のことを見ないし、俺なんかいらないって言われているようで」
 まあまあ、と麻里さんは俺をダイニングテーブルに着かせた。
「私もね、ツクを産んで育ててからずっとそう思っていた。抱きしめても背中を反らせて嫌がるの。そんな赤ちゃん、怖いじゃない。ツクを産んだのが間違いだったんじゃないか。ちゃんと産んであげられなかった私が間違っていたんじゃないかってね」
 麻里さんはホットミルクのマグを両手で包んで目を伏せた。
「気になっていたんですけど、旦那さんは?」
 麻里さんは小さく息を吐くと「出て行ったわ」と呟いた。
「ツクのことを、彼は受け入れられなかったみたい。酷いときには暴力すらあったわ。私は母親だもの。どんな息子であれ、可愛い息子を守らなきゃいけないって本能的に思うの」
 麻里さんの湿度を持った言葉に、自分が愛されていた記憶がとめどなく溢れてしかたなかった。十五歳。反抗期真っただ中。俺は両親に理解されていないと反発した。でも本当は甘えていただけなのだ。反発しても抱き留めてくれる腕があることに安心したかっただけなのだ。全て燃え尽された今は、その腕はもういない。
「麻里さん、俺……」
「今までつらかったわね。おいで」
 麻里さんの腕の中で声をあげて泣いた。やっと、家族の死と向き合えた気がした。

 いつしか俺に麻里さんを慕う感情が芽生えていた。麻里さんには俺が必要なのだと思っていた。それが恋なのか愛なのか、確かめる前に麻里さんは病で亡くなった。俺が家族を失ったのと同じ、筑紫が十五歳のときだった。

 朝、目覚めると俺の隣にはまだ暖かいシーツだけが残されていた。
 夏の盛り、クーラーをつけたままのこの部屋はやけに涼しくて、霊安室を思い出させた。
 部屋の端にある本棚には祖父母がツクにプレゼントしたというこども百科事典がある。それらは番号順には並んでいない。引き取られたばかりの頃、気になって数字順に並び換えてみたら次の日にはまたあべこべに並んでいた。麻里さんが言うにはそれがツクのこだわりらしい。そしてそれが背表紙の色相環順であることに気付いたのはずっと後のことだった。
 階段を降りてテラスに出ると、涼しげな蝉の鳴き声の中、ツクは今日も花を愛でていた。夏の朝日を浴びて彼は今日もきらきらと輝く。
 臨時休業の張り紙を入り口にすると、この日がやってきたのだと死の切っ先が眼球に突きつけられる気がする。
「ツク、おはようございます」
「おはようございます」
 花に乗った水滴を撫でていたツクが俺を見て挨拶をする。ここまで長かったよ、麻里さん。
「手と足を洗ったらコーヒーにしようか」
 ツクは水道で手足を綺麗に洗う。昨晩爪を切ったから一人でも綺麗に洗うことができたようだ。
 ツクをカウンター席の一番端に座らせると、俺は三人分のカップを温め、五十四グラムの豆をミルで挽く。荒くもなく細かくもなく。温めたロトにろ紙を入れ、豆を三等分にする。カップに乗せると少し冷ましたお湯を注ぐと豆が膨らんだ。ツクが興味深く見ている。突こうとするその手を止めて膨らみの中心にお湯を注いだ。円を描くように注ぐと雑味の泡が浮いて出る。どれも全て麻里さんに教わったことだ。何度淹れたって麻里さんの味にはなりはしない。果てしなく遠くて、きっと交わるときなどこないのかもしれない。
「これ、マリ」
 ツクは出したカップのひとつを指して言った。金色の縁の中に薄紅と赤で花の紋様が描かれている。
「マリの、使っちゃ、だめ」
「そう、マリさんのだよ。今日はいいんだ」
 俺はそう言うとカウンターの逆の端、麻里さんの遺影の前にコーヒーを置いた。
 この店には様々な茶器があるが、このカップは麻里さんが初めて自分で買ったカップと聞いた。麻里さんはこのカップを愛していた。「自分へのご褒美なの」と無邪気に笑った彼女は自分を愛することを大切にするということを知っている人だったから。
 少々納得していないツクの頭を撫でて、いただこうかと手を合わせる。
「お手手を合わせていただきます」
「お手手を合わせていただきます」
 ブラックコーヒーでも一度スプーンでかき混ぜてから飲むものだと教えてくれたのも麻里さんだった。ツクは角砂糖の白糖をひとつ、三温糖をひとつ入れる。
 この店にも、ツクの中にも、俺の中にも、麻里さんは在り続ける。そして彼女の死という悲しみがコーヒーの苦みとなって俺の胸を焼いた。二人の朝に慣れていたはずなのに、三年という月日が痛みを和らげても、彼女の名残は色濃く残っている。
「ツク、美味しい? 美味しくない?」
 ツクは少し考えて「美味しい」と笑った。ツクは出会ってからの十年でとてもよく笑う子になった。その笑顔は、在りし日の麻里さんのよう。
「ツク、今日はお墓参りに行くよ」
「今日はお墓参り行くよ」
「何をするか覚えているかな?」
 悲しみに蓋をして、俺は頬を上げて話す
「お墓に行って、お掃除して、お花飾って、お線香あげて、お手手合わせるの」
「そう、よく覚えていたね」
 偉いぞ、と俺はツクの頭を軽く撫でる。
「飲み終わったらお花を庭から摘んできておくれ。色は分かる?」
「黄色、赤色、紫色、白色」
 そうだよ、と俺とツクはハイタッチした。
 麻里さんのコーヒーの湯気が、喜ぶようになびいた気がした。

「ツク、この花の名前は何?」
女郎花(オミエナシ)、合成花類オミエナシ科オミエナシ属の多年生植物」
 黄色の小さな花々が集まり、モールのようにふわふわといじらしい。
 ツクの説明は続く。
「赤は鶏頭(ケイトウ)、ヒユ科の一年生植物。紫は竜胆(リンドウ)、リンドウ科リンドウ属の多年生植物。白は百合(ユリ)、ユリ科ユリ属の多年生植物」
 燃え盛る赤に房を成す紫、そして大輪の白。ツクの頭の中には植物図鑑が入っている。庭に咲く花の主は、心から花を愛していた。
 これらの花をふたつに分けて、先日ツクと一緒に買った菊と合わせる。死の香りが鼻を刺した。

「南無阿弥陀仏」と彫られた墓石に水をかけてふたりで磨いた。麻里さんが眠るこの墓は、麻里さんの実家、俺の祖父母、そして両親と妹も眠る墓である。しかしその世話をするのは俺たちしかもういないらしく、そこかしこに汚れや雑草が生えていた。
「綺麗になあれ」
 ツクは飽きることなく楽しく過ごしているようだ。「綺麗」の定義は人とは異なれど、元来綺麗好きで真面目なツクらしい。今日は快晴で、水に触れるには絶好の日和だった。
 でも俺には閉じかけたかさぶたを剥がすような作業に思えて仕方なかった。
 花を飾るのはツクの役目だ。綺麗に段差をつけてどこから見ても美しくなるよう調整する。ケイトウの燃える赤にオミエナシの黄が映えて美しく調和していた。しかし大輪の菊の存在が俺の中の空虚を呼び覚ます。どうして死に花はつきものなのだろう。
 線香をあげて、二人手を合わせた。ツクは死の意味が分かるのだろうか。
 ふっと、麻里さんの葬式のことを思い出した。
 葬式の最中、ツクは初めて来る場所に、そしてマリがいない不安に落ち着きがなかった。
「マリ、マリどこ? マリ、マリ?」
 やがてその疑問は慟哭に変わった。訳も分からず暴れる十五歳の少年を俺はただ抱き留めることしかできなかった。
「ッチ、葬式ぐらい静かにしろよ」
 麻里さんの別れた夫だった。
「十五にもなってみっともない。騒ぐなら出て行けよ」
 頭に熱いものが上るのが分かった。
「あなたこそ、筑紫の何が分かるんですか。麻里さんはずっと頑張ってきたのに、あなたは筑紫から逃げた」
 周囲の親族がおやめなさいと諭すのも聞こえなかった。
「知るかよ、そんなキチガイ」
 頭が真っ白になった。水が零れるように怒りが止まらない。それでも、俺の腕はあの男を殴るためにあるんじゃない。ツクを抱きとめるためにあるんだ。ただ家族の死に嘆くだけじゃない。俺には守るものができたんだ。
「あなたが筑紫の前から居なくなってよかったです」
 行こう、と震える手でツクの肩を抱いてホールを後にした。ツクの慟哭の余韻をホールに残して。
 結局麻里さんの骨を拾うことはできなかった。
 それでも、ツクのために強くなりたかった。麻里さんが遺したツクを俺は愛していた。ツクはまだマリの死を理解できていないかもしれない。でも、いつか死と向き合えるようになったとき、俺も麻里さんのように抱き留められる腕でありたかった。

 ぽたり、ぽたり。
 石畳に水滴が落ちる。
「テツ?」
 心の関が決壊した。もう、限界だった。
「麻里さん、麻里さん、なんでいないんですか。俺を、ツクを置いて逝かないでください。寂しい。寂しいですよ」
 嗚咽と共に言葉が溢れ出す。
「テツ、テツ? マリがいるの?」
「ごめん、違うんだ、なんでもない。もう少し待って」
 腕で目をこすっても、滲む汗と溶けるだけで雫は止まらなかった。
 ふわり、と花の香りに包まれる。
「テツ、だいじょうぶ」
 俺をしっかりと抱きしめて、ツクが言う。ああ、この親子には敵わない。
「ツク、ツクのこと好きだよ。マリさんのこともずっと好きだ。お願い、ずっと傍に居て」
「テツ、すき」
 いいこいいこ、俺がたまにするように、麻里さんがたまにするようにツクが頭を撫でる。それが愛だと、ツクはもしかしたら知っているのかもしれない。
 人は誰かを悼むとき、自らの命の代わりに花の命を捧げる。それが筑紫のくれた答えだった。俺は筑紫の花が大好きになっていた。

 昼になって、俺は店を開けた。麻里さんを知る人々が店に来ては俺とツクに思い出話を聞かせてくれた。麻里さんは皆に愛されていた。ツクも、俺もその一人。
 カウンターの端でツクは鼻歌を口ずさみながら次の花壇のプランを紙に色鉛筆で描いていた。脇にはオリジナルのベースを使ったカフェオレがある。ツクの庭に二度と同じ日はない。季節の花を揃えて、その移ろいを楽しんでいるのだ。次の定休日にはホームセンターでツクと苗を選んでこよう。
「おや、筑紫くん、その歌はコーヒールンバかい?」
 初老の男性がツクに話しかける。
「その歌はコーヒールンバかい?」
「よく麻里さんも歌っていたものだから移っちゃったのかもしれないな。そこのピアノでたまに弾いてくれたわい。いやはや、懐かしいものだ。轍志くん、モカマタリ一杯くれるかい?」
「はい、かしこまりました」
 ミルで豆を挽くと芳しい酸味が鼻をくすぐる。
「次のお庭もマリは見てくれるかな」
「きっとな」
 永遠などないと知っていても、二人でコーヒーを飲む日々が続けばいいと、俺は祈った。


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