ピロートーク

てぇると



溜息とともに目が覚めた。
降ろしているブラインドからは朝を告げる光は漏れておらず、隙間から少しだけ外を見れば曇っているようだ。

自分の身体に視線を落とせば、一糸纏わぬ姿。隣で幸せそうに呑気な寝顔を見せる彼女もまた同じ姿で夢の世界に魅入られているようだ。

「起きるか……」

彼女の頭を一度だけ撫でて、ゆっくりと立ち上がる。
ボヤけた視界と曇った思考回路では禄な行動は出来ないので、とりあえずは顔を洗うべく洗面所に足を向けた。

「ニャー」

歩き出した足には我が家で飼っている猫が「エサー!」と言わんばかりのふてぶてしさで鳴いている。

「はいはい、分かったよ」

人の言葉が通じているのではないか? とたまに思うことがある。猫は僕の言葉を聞くとフンッと鼻を鳴らして僕から離れていった。

冷水に顔を晒すと、脳髄の果まで冷めていくような感覚に陥る。秋頃と言えど、水道の水は物凄く冷たい。

洗面所に置いていた部屋着代わりのシャツとジャージのズボンを履いてリビングに向かう。

「意外と早いな……」

彼女の出発の時刻に合わせているとはいえ、まだ夜が開けたばっかりのようだ。その証拠に、窓から見下ろした街はまだ静けさを保っている。
この街が正常に機能するのはあと1時間ぐらいだろう。

睡眠大好きな彼女の事だ、起きるのはもう少し後だろう。
さてと、コーヒーでも淹れるとしよう。

そう思い、禄に座りもせずにキッチンに立つ。
彼女は朝ご飯を食べない代わりに、コーヒーを必ず飲む、なので用意するのはコーヒーだけでいい。

「その前に……っと」

CDをセットして音楽を鳴らす。
彼女の好きな、安っぽい洋楽にいつしか僕の耳も慣れ親しんだようだ。何処かで聞いたことのあるフレーズと旋律で滑らかな音が奏でられる。

密封器に入れていたコーヒー豆の蓋を開けると、焙煎仕立てのいい香りが鼻腔をくすぐった。
他のコーヒー豆とは違う独特な香りだ、僕はコーヒーに詳しくないのでよく知らないが、彼女はこの豆を好んで買ってくる。

珈琲ミルの中にコーヒー豆を念のため4杯分入れると、密封器の中のコーヒー豆はそれで品切れだった。
思わず、乾いた笑みが零れる。ナイスタイミングと言うか皮肉的と言うか。

「はぁ」

浅い溜息を吐き出して、珈琲ミルの取っ手を持って豆を挽くとゴリッゴリッと音を鳴らしながら、豆がドンドン元の形を失って粉末になっていく。
粉末になったコーヒー豆をペーパーフィルターに落として、手早くコーヒーメーカーにセットする。

幾つかのボタンをポチポチと押して、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をコーヒーメーカーに入れ、一際大きいボタンを押した。

ガガガッと何かが詰まったような、少し不安になる音と共にコーヒーメーカーが動き出す、そろそろ買い替え時なのかもしれない。

一通り自分の仕事が終わったので、椅子に座り背伸びをする。
その時、ガチャリと奥の部屋の扉が開いた。

「おはよー……」

何処か猫を彷彿とさせる大きな目と、明るい茶色の髪を肩まで垂らした彼女が部屋から這い出てきた。

「うん、おはよう……って、なんで裸なんだよ君は」

呆れつつ、未だに全裸の彼女を一瞥する。

「いいじゃん別に、昨日はアレだけベッドの上で私の身体を……」

「ストップだ、朝からする話じゃ無いだろう? それに下着ぐらいつけて出てくるのがマナーだ」

「むー……あ、これでいい」

リビングの椅子にかけてあった僕のTシャツを引っ張ると、下着も付けずにそれを着始める。
もう、なんか言うのも疲れるので敢えて突っ込まない事にした。

「準備はできてるのか?」

「うん、昨日の夜にすませてる。顔洗ってくるね」

そう言い残し、彼女は洗面所に向かう。
僕の足元にいた猫は彼女が起きてきたのに気づいたのか、嬉しそうに駆け出した。
僕には対して懐かないくせに、まぁ別にいいさ。

「あー、目が覚めた」

タオルで顔を拭いながら、彼女が腹の底から声を出した。

「歯ブラシは持っていくのか?」

「いんや、向こうで買うと思う」

「そうか」

短いやり取りを交わすとピーッ! ピーッ! とコーヒーが出来たと知らせる高音がコーヒーメーカーから響いた。

「時間は?」

念のために彼女にそう聞くと、心配ないと手を動かした。

コーヒーメーカーから備え付けのポッドを取り出して、コップに暖かいコーヒーを注いでいく。
豆の状態でもいい香りだったが、淹れると数段は香りの良さが目立つ。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

彼女はコーヒーカップを両手で包み込むようにして受け取ると、冷ますように息を吹きかけた。君は猫舌だったね。

僕も彼女の隣に腰掛けて、カップに注がれたコーヒーを飲んだ。独特な香りが鼻の奥を抜けて行き、苦味の中に残った酸味が舌を刺激した。
僕達の朝は、いつもこれから始まっていたのだと強く思わせる味だ。

「「ふぅー」」

二人して、同じタイミングで大きく息を吐き出した。
そして、顔を見合わせて笑みが漏れる。

「大丈夫そう?」

コクンっと小首を傾げながら、彼女が僕の目を見据える。

「あぁ、僕は大丈夫。君は?」

「私も大丈夫そう」

「そう」

「えぇ」

少し目を逸らしながら、短い会話を交わす。
この時間が、もう少しだけ長く続けばいいのに。
そう、強く思った。

「ニャー子おいでー」

彼女は文字通りの猫撫声で、猫を呼んだ。
大体、ニャー子なんてネーミングセンスの無い名前は嫌だったんだけどなぁ。

「うりうりー、可愛いなぁニャー子!」

猫を捕まえた彼女は、コーヒーをテーブルに置いて猫を両手で抱きかかえる。

「ねぇ」

「ん?」

「ニャー子のこと、お願いね?」

「元々、僕の猫だよ」

「……それもそうだね」

彼女は両手で抱えた猫を床に下ろして再びコーヒーのカップを持って、中身を飲み込んだ。
それに合わせるように、僕もコーヒーを飲み込む。

ただ過ぎ去っていく時間の流れが忌々しく感じる。
僕は惚けたように、ただ前を見据えることしか出来なかった。

「よっし、着替えてくるね」

彼女のその声でハッと我に返る。
パタパタと彼女は部屋に戻って行く。
壁に掛かった時計に目をやれば時計の針が指す時刻は六時前。
時期に、彼女の出発の時間だ。

「おいで、ニャー子」

日頃は擦り寄って来ないのに、少しだけ僕が寂しいと素直にコチラに来てくれる。まったく、この気まぐれは誰に似たのだろう?

足元にいる猫と戯れながら、コーヒーを啜ったりしていると恐ろしいほどに早く時間が流れた。

「よし、準備終わり」

化粧を済ませ、髪を整えて、服を着替えた彼女が部屋から出てきた。いつもよりも、少しだけお洒落だ。

「出るの?」

僕が問いかけると、彼女はチラリと時計を一瞥して静かに頷く。

「送っていこうか?」

「いや、一緒に行く友達が下まで迎えに来てくれるって」

「あー……そう」

「うん、だから玄関まででいいよ」

僕も静かに頷いて椅子からゆっくりと立ち上がる。
猫も僕の後を追うように健気についてきている、全く今日は珍しい。

「忘れ物は?」

「うん、大丈夫そう」

トランクを横に置く、彼女の緩やかなカールのかかった茶色の髪が揺れた。

「ねぇ、このシャツ」

彼女は先程まで着ていた僕のTシャツを掴んで、胸元に突き出した。

「私って部屋着ないからさ……持っててもいい?」

「うん、持って行っていいよ」

「ありがと」

僕のTシャツをトランクに詰めて、彼女は玄関に降りるとゆっくりとブーツを履いて、マフラーを巻く。
僕は何をするでも無く、その光景をジッと見ていた。

「それじゃ……」

大きな瞳で僕の顔を覗き込むように見ながら彼女が口を開く。

「……うん、それじゃ」

その瞬間、彼女は僕の胸倉を掴んで自分の方に引き寄せて唇を重ねた。数えること数秒程度だったが、何故か永遠にすら感じられるほどの長い体感時間だった。

「ははっ、何その顔」

唇を離した彼女はいつものように楽しそうに笑う。

「君こそ、なんだよその顔は」

僕もきっと、間抜けな顔で笑っているのだろう。
そして──

「じゃあね」

満面の笑みと、彼女の白い肌に伝う涙。
僕も笑いながら、涙を流しているのだろうか? 視界が少しボヤける。

「あぁ、じゃあね」

無機質な重い扉が開くと、外の肌寒い風が部屋の中に流れ込む。

「元気で」

「君こそ」

「私は大丈夫」

「僕も……大丈夫だよ」

「そう?」

「あぁ」

しっかりと彼女の目を見据えてそう告げる。
彼女は出会った頃と同じような優しい微笑みを浮かべながら手を振った。僕も、それに応えるように手を振る。

無機質な扉がバタンと大きな音を立て閉まった。

「ニャーッ」

その音と共に、猫が声を上げた。
そして、僕を慰めるように足元をグルグルと回っている。

大丈夫だよ、僕は大丈夫。
言い聞かせるように心の中で反復して椅子に腰掛け、すっかり緩くなったコーヒーを一息に飲み込んだ。

一人分の温もりを失ったこの部屋には、未だ彼女の好きだった珈琲の香りが僕を慰めるよう漂っている。

僕は静かに、目元を拭った。



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