境界の微睡

櫻里




 ――ざり、とコーヒー豆を削る音にふと意識を覚醒させる。


 重たい瞼を上げると、書きさしのポップが目に映った。体を起こすとタオルケットが肩から滑り落ちる。どうやら寝落ちていたらしい。軋む体をゆっくりと伸ばす。見慣れた木製のカウンターを挟んで、ワイシャツ姿の悠斗がミルを引いているのが見えた。ああ、ここは彼の喫茶店だ。それを理解するとこわばっていた肩の力が抜けた。
 カントリー調でまとめられた木目のある家具と、深緑のカーテン。それになじむように普段彼がまとっている青のエプロンは、カウンター脇に所在なさげにぶら下がっている。
 豆が引き終わると、ふ、と彼の視線がこちら向く。私が起きたのに今気がついたらしく、少しだけ目元が和らいだ。
「起きたのか。まだ暗いぞ」
「うん」
 店内はほとんどの照明が落とされていて薄暗い。カウンターだけにつけられた明かりがまるでスポットライトのように、彼の姿を浮かび上がらせる。彼のお気に入りのジャズすらかかっていない店内は冷え切っていて、私は無意識に手をすり合わせた。その様子を見て彼は「悪い」と断りを入れて、思い出したように空調の電源を入れた。ヴンと少し重たい稼働音が聞こえて、しばらくすると温かい空気が入ってくる。
「秋の入りとはいえ、明け方は寒かったな。すまん」
「いいよ別に」
 手元に散らばるポップを拾い上げて悠斗に手渡す。寝落ちこそしたが、いくつかは完成している。彼はそれを受け取って軽く目を通すとうん、と小さくうなずいた。
「助かった。あとで机においておくよ。新作のたびに悪いな」
「いいよ。一番に試食させてもらったし」
 新しいメニューを出すたびに私が店に置くポップを作るようになったのはいつからだったろうか。暗黙のルールで一番最初に試食をさせてもらうこの契約を、私は存外気に入っている。
「悠斗が作ったんじゃ、お客様も頼もうとは思わないでしょ」
「そんなにひどいか?」
「ひどいよ。絵も文字も前衛的すぎるんだもん」
 初めて店に来た時に見た奇怪画のようなまがまがしいポップを思い出して笑う。書いてある内容は確かにおいしそうなのにどこかおどろおどろしいそれを頼むべきかかなり躊躇したことはそう簡単に忘れられそうにない。
 悠斗はどこか納得のいかない様子で何度も首をかしげている。その様子をみて私はおかしくてさらに笑った。
 彼の手が蒸らし終わったらしいドリッパーにお湯を注いでいく。こぽこぽと注がれる音に合わせてふわりとコーヒー独特の芳ばしい香りが鼻をくすぐった。
「いい匂い」
 私の言葉に彼は柔らかく微笑む。目元が緩み、無邪気な喜びが瞳から見え隠れするこの瞬間の表情が私は一番好きだ。
「なんか飲むか」
「じゃあ、マスター。ノルマンディーコーヒーをひとつ」
 カルバトスとホットコーヒーを合わせたカクテルに、ホイップクリームをのせた彼特製のノルマンディーコーヒーを冗談ついでに注文してみる。悠斗は一瞬惚けた顔をして、すぐにしかめ面で首を振った。
「朝に飲むもんじゃねえだろそれ。ブラックが飲めないガキンチョのくせに」
「冗談ですー。ガキガキ言わないでくださいー。もう二十歳は超えてますー」
「そうだなあ、17だった小娘がもう24か……やっぱりガキだな」
「40が見えてきたおじさんに言われたくありませんー」
 頬を膨らませた私をみて、彼は忍び笑いを漏らした。まるで幼子を見つめるような眼差しが少し気に食わなくて不貞腐れてしまう。一回り年上の彼はなんだかんだと言って私を子供扱いしたがる。

 例えば、可愛らしいラテアート。

 今では店の名物にすらなった彼の特技は、私の為に覚えたのだと知っている。店に増えた甘い飲み物のレパートリーも、女の子が好む愛嬌のある甘いものも私がこの店に通いだした頃には無かったものばかりだ。彼は客層に合わせてだ嘯くが、私が来る以前は若い人なんてほとんど来ていなかったことだってよく知っている。

 彼のレパートリーが増えるのは、私の誕生日がある月ばかりだ。素直ではない彼も大分子供っぽいと思うのだが、そんなことを口にしたところで否定が返ってくるだけだろう。

「カフェオレでもいいか」
「うん」
 私の言葉を聞き届けると、私専用のマグを取り出した。白詰草の描かれたシンプルなマグ。それが一番手前にあることにほんの少しの優越感を覚える。彼は慣れた手つきで淹れたてのコーヒーに、絶妙な量のミルクを注いでいく。差し出されたマグを受け取ると柔らかな色をした液体にゆらゆらと自分の顔が映り込んだ。口にほんの少し含むと滑らかな舌触りと共に、口いっぱいに仄かな苦味と芳ばしい香りが広がってほう、と息が漏れた。目覚めの一杯にしては優しすぎるその味は、淹れた彼の性格をよく表している。立ち上ぼる湯気と手のひらに伝わるぬくもりに再びうとうとと、瞼が重くなってくる。

 ふと、彼が飲むカップに目がいく。私のカフェオレついでに、自分のコーヒーも淹れたのだろう。ブラウンの私の手元と異なり、彼が手に持っていたカップには黒い液体が揺らめいている。
「また、それだ。好きだね」
「朝はこれじゃないと、起きた気がしないんだよ」
 彼はいつだって同じコーヒーを飲む。ネルドリップで入れた深煎りのブラックコーヒー。その後姿を霞がかった思考で眺めるのはもう、何回目だろう。薄く朝日が差し込む部屋でコーヒーを飲む彼が何を想うのか、いつも気になるのに眠気に抗えず聴くことができた試しはない。
 再び舟を漕ぎだした私に気が付いたのか、彼はあきれたように私の頭をこつんと小突いた。
「寝なおすなら部屋で寝ろよ」
「連れていってくれればいいのに」
「……落としてもいいなら」
 体力に自信の無い彼が視線を泳がせながら、指先の煙草を遊ばせる。バツが悪い時、彼は指先で何かを手慰みにいじる癖がある。昔から変わらないその仕草に口元を綻ばせる。きっと彼本人は気が付いていないのだろう。
 くわり、と大欠伸を一つ漏らすと、生理的な涙がひとつ目元に浮かんだ。これは部屋に戻るまでもなく寝落ちるかもしれない。飲みかけのカフェオレを横に押しやってカウンターに頬杖を突く。
「煙草吸ってるの、久々に見た」
 長くゴツゴツとした指に挟まれた1本の煙草から立ち上る煙をぼんやりと見る。彼は手元に目をやると明らかにしまったという顔をした。
「あ、悪い」
「いいよ、消さなくて」
 慌てて火を消そうとする彼をそっと静止する。この店に通いだした頃は、子供の前で吸うわけにはいかないと、彼は私の姿を見るといつも煙草を消していた。その事をいつも残念におもっていたのだ。コーヒーと煙草は彼に良く似合う。ぼんやりとカウンターに体を預けて、煙草を燻らせるその横顔は様になっている。
 言外に私は子供じゃないのだと伝わるように上目遣いで見つめる。灰皿に向かっていた手がつい、と口元に戻っていった。
「そうか?」
「うん。……それに、私この匂い好きだから。なんだか大人になった気がして」
 燻らせる煙草の匂いと香ばしい豆の香りが混ざる。嗅覚だけでも伝わる舌先の苦み。かつて彼に一口もらったコーヒーの雰囲気によく似ている。苦いと顔をしかめたあのころとは違って、今は私の体にまで染みついてしまった彼の匂い。
「……はは、ガキだな」
 そういって目を細める彼の姿がぼやけていく。ふわりと一本の煙が、湯気と混じって虚空へと溶けていくのが視界の端で見えた。重さに耐えきれなくなった瞼がゆっくりと降りる。目元にたまった涙が、重力に従って頬を滑り落ちる。

 もう私も、あなたと同じものが飲めるようになってるんだよ。心の中で呟いても、決してそれは口に出さない。

 同じものを味わう朝はそれはそれで魅力的だろう。ほんの少しだけ目を見開いて、とろけるように顔をほころばせる彼の表情が目に浮かぶ。左手の薬指にある指輪が、光を吸って鈍く煌めく。共に歩く未来はもうすぐそこにあるのだ。

「美羽」

 優しく私を呼ぶ声が聞こえる。砂糖のように甘く、舌先で滑るミルクように滑らかな、染み付いた匂いと対極にある彼の声。するりと彼の指が私の髪を梳いていく。大切だと五感すべてで感じられるこの距離を手放すには、まだ惜しい。
 二人で選んだレースのカーテンから、橙の光が祝福を送るように差し込んでくる。もう直に夜が明ける。いつもの日常が始まってしまう。次に目を開けたときはもう少し大人になった私を見せるから。

 だから、まだ。

 

 ――まだ子供だからと嘯いて、大好きなものに包まれて微睡むのだ。


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