幸福な朝

和咲結衣



 目を覚ましたきっかけは、眠りに落ちる前に隣に在ったはずのぬくもりが無くなっていることに気付いたからか、それともあまり嗅ぎ慣れない香りに気付いたからか。
 微睡んでいるにも関わらず、ほろ苦く香ばしいその匂いの正体がコーヒーであることに気付くのにそう時間はかからなかった。コーヒーは普段自分ではあまり飲まない嗜好品だけど、一応ドリップタイプのインスタントはストックしている。自分のため、というよりは、頻繁にここを訪れては時間を共有する相手――恋人のために。どうやら、隣で寝ていたはずの彼がキッチンに立ってそのコーヒーを淹れているらしかった。
 うつらうつらと夢とうつつをさまよっていると、ベッドの空いていたスペースに負荷がかかり、スプリングが軋んだ音を立てる。彼が、戻ってきた。大きな手で髪を梳くように頭を撫でられる心地よい感覚に、今度こそ私の意識は引き上げられた。
「……とき?」
「おはよう。って言っても、まだ夜明け前だけど」
 寝起きのせいで少し擦れた声で手の持ち主の名前を呼べば、優しい声が存外近くから落ちてくる。目を開けて視線だけ動かすと、薄暗い室内の中でぼんやりと見える彼と目が合った。穏やかな笑みを湛えた彼に、つられて私もへらりと笑い返す。
「はよ……なにしてたの?」
「特に何も。目が覚めたから、ついでにコーヒー淹れてた」
「……そう」
「ハルも何か飲む? 紅茶でも淹れようか」
「……のむ。コーヒーでいい。いれて」
「わかった。ちょっと待ってな」
 ほんの少しだけ考えて答えると、返事と共に頭にあった彼の手が頬に移動して、くすぐったさに思わず身を捩る。彼はそのまま私の反応を楽しむかのように数回緩く頬を撫でると、ゆっくりと手を離して立ち上がった。私の分のコーヒーを淹れに再びキッチンへと向かう彼の背中にもう少しだけ撫でて欲しかった、と恥ずかしいことを言いそうになって、私は見られているわけでもないのに口元を隠すようにタオルケットを引き上げた。
 彼がキッチンでコーヒーを淹れてくれている間、ベッドから離れる気になれなくて横たわったまま室内を眺める。夜明けが近づくにつれて少しずつ明るくなる部屋の中央に置かれたローテーブルの上に、マグカップがひとつ。中身は彼が自分用に淹れたコーヒーで、きっと角砂糖がひとつ溶かされただけの、真っ黒な液体。私にはこんな苦いもの、とてもじゃないけど飲めそうにない。
 こんな液体をよく飲めるよなあ、と考えていると、私用のコーヒーを淹れ終えた彼が戻ってきた。
「お待たせ。角砂糖四つにクリープ三杯、だったよな?」
「ありがと……ごめん、ついでに起こして」
「はいはい」
 片腕を持ち上げて甘えると、彼は快くローテーブルに持っていたマグカップを置いて私の手を取り上体を引き起こしてくれる。そして私がのろのろとベッドから足を降ろすのを見計らって、もう一度マグカップを持ち上げ私に渡してくれた。
 ありがとう、とお礼を口にして、両手で包むようにマグカップを持って口に運ぶ。水面からふわふわと立ち昇る湯気に息を吹きかけて、ひとくち。優しいコーヒーの香りと、砂糖とクリープの甘さと……ごまかし切れない独特の苦味が混ざって口の中に広がった。
 苦みに反応して思わず眉間に皺を寄せると、隣に座ってすまし顔でマグカップを傾けながら私の顔を眺めていた彼が笑う。
「……そんな苦そうな顔するなら、無理して飲まなくてもいいのに」
「飲みたいから飲んでるんだよ。たまにはコーヒーもいいかなって……トキが飲んでるのを見てたら、なんとなく飲みたくなるときがあるの」
「……あぁ、『好きなものは共有したい』だっけ?」
 そんなこと言ってたね、とぽつりと落とされた言葉に、私は思わず動きを止めた。マグカップに口をつけたまま、じわじわと頬に熱が集まっていくのが自分でもわかった。
 以前、初めて彼の前でコーヒーを飲んだ時にそんな話をしていたのだ。どうして大量の砂糖と牛乳で無理矢理苦味をごまかそうとしてまで嫌いなコーヒーを飲もうと思ったのか訊かれて、確かに私はそんな答えを返した。好きな人の好きなものは、たとえ苦手なものでもできるだけ共有したい、みたいなことを。
 ……あの発言は我ながら恥ずかしい部類に入るものでできれば忘れて欲しかったのに、どうして彼はしっかり覚えてるんだか。恥ずかしさと恨めしさにも似た感情を込めて、半眼で彼を睨んでやる。
「……そうだよ。悪い?」
「いいや。嬉しいよ」
 羞恥で不機嫌になった私を、彼は素直な言葉で易々と受け止めてしまう。それがまた悔しくて、翻弄される自分が恥ずかしくて、でもほんのちょっとだけ嬉しくもあって……もやもやとしながら、私はまたコーヒーをすすり、その苦さに顔をしかめた。ああやっぱりこの味は苦手だ、と心の中でひとりごちる。
「――ふ」
 そんな私の様子をまだ観察していたのか、隣から微かに笑い声がこぼれる。顔ごと視線を向けると、穏やかな表情を浮かべた彼。けれどその口元が不自然に緩んだままなのを、私は見逃さなかった。
「何笑ってんの」
「俺の彼女は可愛いなって、改めて思っただけ」
「! ……ばーか」
 ストレートすぎる返答にまた言葉が詰まる。照れ隠しの拙い悪態と共に肩をぶつけるように寄せれば、彼はまたあたたかい色を含んだ声で笑った。
 確かに私はコーヒーが苦手だ。どんなに砂糖やクリープを混ぜてもごまかしきれない苦味はいつまで経っても慣れないし、その苦さが美味しいとはとても思えない。強いて言うなら、好きと言えるのは香りくらい。
 それでも、好きな人が好きだって思うものを、自分も同じように好きになりたい。好きになれないものだって勿論あるけど、出来るだけ好きなものを共有したい。そう思うから、時々こうやってコーヒーに挑むのだ。

 彼が淹れてくれたコーヒーを、彼と一緒に飲みながら迎える夜明けのひととき。コーヒーが苦手なことを抜きにすれば、これはきっと、私にとってのシアワセな時間なのだろう。


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