キスの温度

蒼木遥か



 Enterキーをぱちんと叩いて、伸びをする。長時間同じ姿勢でパソコンに向かっていたからか、体を左右に伸ばすとあちこちがぱきぱきと音を立てた。
 会社員のころから細々と書いていた小説が、今お世話になっている編集さんの目にとまったのがきっかけで、会社を辞めた。しばらくの間は執筆とアルバイトを掛け持ちしていたが、何冊か本を出し、執筆業だけで食べていけるようになったのは最近のことだ。
 逆にいえば近頃は執筆しかしていないわけで、思い付く限りは昼夜を問わず、時間も忘れて、ずっとパソコンに言葉を打ち込み続けている。今だってちょっと夜更かしをしただけだと思っていたのに、カーテンの外はもう薄明るい。
 こきこきと首を回し、画面をスクロールして書いた文章を斜め読みする。喉を潤そうと無意識に手を伸ばしたグラスが空なのに気がついて、一息入れてからもう少し推敲しようと立ち上がった。

 駅から少し離れた広目の1LDK。そこに相方の優と一緒に住んでしばらく経つ。洋室は二人の寝室にあて、居間の隅に大きめの机を置いて仕事スペースにしている。
 冷蔵庫から作り置きしていた水出しのコーヒーを取り出し、グラスに氷を入れてから注ぐ。よく冷えたコーヒーは口に入れると脳みそをほどよく刺激した。
 グラスを手にしたまま窓際に立ち、カーテンを開けて外を見る。深夜に作業をするときはデスクライトだけを点けて部屋の灯りは消すので、東向きのベランダからは遠くの空が少しだけ明るくなっているのがよく見えた。いつだったか、優が夏は1日が長くて嬉しいと言っていたが、夜型の生活をしがちな自分にとって夏は夜が短すぎて寂しいと思う。
 寝室から、かたんと音がした。起こしてしまったか、と思ったら、ほどなく優が目元を擦りながら顔を出した。
「あれ……、かずちゃん早いね……」
 おはよう、と言いながら私の名前を呼ぶ。
「おはよう、ごめん起こした?」
「ううん、のど、かわいて」
 優が寝起きならではの少し舌足らずな話し方で返答する。
 かずちゃんは、はやおきじゃなくてねてないのか、と言われ、苦笑いしたまま否定も肯定もしない。優は夜更かしに厳しい。
 台所に出したままだったアイスコーヒーのポットに目をとめて、飲んでいい? と聞かれる。眠れなくなるよ、と返したがまだ寝ぼけた声で「うん」としか返事がない。
 グラスに氷を入れるカランという音とコーヒーを注ぐ音がして、優がこちらへやってきた。薄い水色の揃いのタンクトップとショートパンツを着て、すらっと手足の伸びた優の姿が薄明のなかに浮かび上がる。いつも見ている姿だけれども、こうして立つ姿もきれいだと思う。
 傍らに立ち、グラスを持ったままぼんやりと外を眺める優の額に横から口づけを落とす。優が、ん? とこちら伺うように顔を向けたのに合わせて、今度は正面から口づける。
「どうしたの?」
と優が問う。
「きれいだなと思って」
と答える。優はふふっと笑った。
「……かずちゃんのくちびる、つめたい」
「……優があっためて」
 優はえー、と言って下を向きコーヒーを一口飲むと
「ざんねん、もう私もつめたい」
と、へにゃと笑った。その笑顔がたまらなくかわいい。
「……じゃあ私があたためてあげようか」
 私は自分が持っていたグラスをそばの棚に置いた。優の持つグラスも取ろうとすると優は
「まだ飲んでる」
と膨れっ面をする。私は何も言わずにやや強引にグラスを取り、そのコーヒーを口に含む。そして優と唇を重ねると冷たいコーヒーを流し込んだ。優がこくこくと喉を鳴らす。そのまま唇は離さない。するとすぐ、優がぱんぱんと私の腕を叩く。名残惜しいが仕方なく唇を離すと、優がぷはっと息を継ぐ。
「息、しなさいよ」
と言うと優が膨れっ面のままこちらを見上げてきた。
「……ずるい」
「コーヒー、飲めたでしょ」
「……アイスコーヒーがアイスじゃなくなった」
「私の愛がコーヒーすらも温めてしまったらしい」
 困ったように私がそう言うと、優はぷっと吹き出して
「……もっとあたためていいよ」
と両手を広げた。

 ああ、もうこれは止められないし、止めたくない。原稿はあとにしよう。大丈夫、夏の長い1日はまだ始まってすらいない。
 そう思って、優をきつく抱き寄せた。そして、深く深くキスをする。
 夏よりも熱いキスで私の熱があなたに伝わりますように、と願いながら。


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