三点コーナーと赤い糸

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 あいしている。

 という言葉の意味を知ったのはわたしが十五のときだった。
 きっかけは酷く単純で、決して高い身長ではないのにバスケのドリブルが誰よりもうまく、合間をすり抜けて三点シュートを取り続けるあなたの猫背を、実際にあいしたから。
 体育館の隅っこにあなたが帰ってきたとき、弾かれたように飛んだ汗が、張り付く黒い髪が、浅黒い肌が、すべてが美しかった。
 極めつけはその瞳。暗くて、黒くて、決して何者をも寄せ付けないように思うのに、意外にも簡単に笑みを宿す眼球。でも、一人きりでいるとき、黒板を見つめるとき、あなたの瞳はただの宝石になって、もはや臓器でも器官でもない。ただ冷たくて血の通らない、鉱石のような温度で、あなたは世界を見る。
 芸術品を、天使を、あいするように、私はあなたに恋をした。

  *

 十二年で、星は一巡りする。
 洗いたての朝の冷気が窓を叩く。風は私たちの寝室に忍び足で入りこみ、ベッドのなかにまで蛇のように滑り込んでくる。開きかけたジップロックを閉じるみたいに、ふかふかの羽毛布団をぎゅっと握って隙間をつぶす。ぴたりと素肌に触れる毛布に、じんわりと私の肩は汗ばんだ。
「……うん」
 朝になったのだ、と分かる。目覚めの瞬間というのはいつも不思議だ。半分夢のなかにいたみたいで、十二年の前のことが、まるで昨日のことのよう。それなのに、昨夜は昨夜で濃厚な思い出が存在して、そのだぶつきがおかしい。
 あいしている。たいしてその言葉の意味を知らなかった私が、恋をしたりされたり、誰かを愛したり愛されたり、結婚を意識したり反故にしたり、いろんな波乱を経ながら、二十代後半のいま、結局一人でいる。
 それもこれもたったひとつの『正解』を求め過ぎたがゆえのこと。
 結局答えが一つしかないということはよくあって、どんな恋愛映画を見ても、詩を読んでもヒットソングを聞いても、描かれる男や演じている俳優はさまざまなのに、結局のところその向こうに見ている相手は一人だけ、ということ。本のページの裏側、歌詞の深読み、ドラマのロマンティックシーン、そのすべてに透けるようにあなたが被さる。それが運命というやつで、たとえ一方的だったとしても、赤い糸というやつは存在するのだと私は信じている。
 そろりと身体を動かして、ベッドから這い出た。抜け殻はちょうど一人分の形をしている。ここに、男の人の残影はない。
 大きな犬でも撫でるみたいに、てのひらを布団のなかでがさがさと動かす。ぬくもりは、やっぱり一人分しかない。まるで一人で寝て、一人で起きた朝みたい。
 ああ、バカみたいだと思った。
 恋の一番おそろしいところはどこですか、ともし聞かれることがあったなら、私はこう答えます。
「忘れがたいところ。さらにいうならば、忘れようと決心したその瞬間にはすでに、生涯忘れられない思い出になってしまっているところです」
 私は夢の続きがしたくて、でもそれが叶わなかったことに、いまひそかに落胆をしている。あの頃の私たちはセーラー服と学ランを着ていて、文系か理系かすら決めていなくて、就職活動なんてもちろん遠く未来の話で、両親の庇護のもとぬくぬくと暮らしていた。あれから十二年、あの頃接点を持たなかった私たちは、何かのめぐりあわせ、あるいはただの偶然で、こうして一つ屋根の下にいる。
 自分で家賃を払っている家で、自分一人だけの生活を続けて、三十が近くて、そういう女の部屋に、なぜかあなたはいる。
 あくびをしながらキッチンの戸を開ける。彼がいた。
「おはよう」
「おはよう」
 彼は微笑みもせずに、目玉焼きをひっくり返していた。
 コトコトと何かが鳴る音がするのでぐるりと部屋を見渡せば、電気ケトルが赤く光って湯沸かし完了を知らせている。鼻腔をくすぐるおいしそうなにおい。それがどうやら一人分の朝ごはんであることを確認して、私は戸棚からカロリーメイトを出した。お徳用三種パックの最後に残ったフルーツ味。どこか宇宙食みたい。
 ほおばりながら、横目で彼の後ろ姿を見る。家に泊めたのは昨晩が初めてだったので、彼が料理をするところを見るのも初めて。勝手にひとんちのフライパンを使えるところがさすがだなあ、と思う。私なら遠慮しちゃって、ううん、嫌われるのが怖くてできない。勿論私はこんなことで彼を嫌いになったりしないけれど。
 そもそも私が先に起きて、すべてを完璧に整えておくべきだったのかもしれない。そんなことはどう逆立ちしたって出来ないけれど、でも、本当はそうしておくべきだったのだ。残念なことに(あるいは幸いなことに)、彼はなんでも一人きりで出来る人だった。
 指先についた粉をティッシュのうえに落としながら、ねぇ、と話しかける。
「いたんだね」
 かすかに空気が動いて、彼がわらう。
「なにそれ。帰っててほしかった?」
「そしたら忘れられたかも」
「うそ」
 なかったことにしたい?
 と、微笑む彼が、フライパンから金魚をすくうみたいに目玉焼きを皿へ落とす。なめらかに滑ったつやつやの白身が、朝日を受けて、安物の陶器のよう。ふんわりと香ばしい香りがして、まるで実家に帰ったみたいに懐かしかった。
 彼はフライパンをシンクに置いて、勢いよく水を出した。その背中に手を伸ばす。
「ちょっと」
 後ろからぎゅっと抱きついてみせると、彼は困ったように眉を下げた。ほんとに少し怒ってるみたい。いつかこういうのをやってみたかった。好きな人を困らせる。でも、あんまり気分はよくないな。
 ついでに彼のお腹を探ると、くつくつと笑い声が響いて、私は大満足した。
 いたずらを終えて、床に投げっぱなしになっていたパジャマを羽織る。あくびをこらえながら彼の隣に立つ。
「私やるよ」
「いいよ。ていうか食べれば」
「それ食べていいの?」
「由香の卵じゃん」
 名前を呼ばれるのすら魔法みたい。もう話は終わったというふうに、彼はフッ素加工の施されたそれなりに高価なフライパンをごしごしと洗う。不思議な生活感と、泡のついた指先。
 すごい。あのフライパン、使ったことあるんだ。私、最初は取っ手の外しかたぜんぜん分からなかったのに。
「じゃあ、コーヒー入れるね」
 ケトルに水をほうりこんでスイッチを押したのは彼。ということはきっと、朝の一杯を楽しみたいのだろう、と私なりに気を利かせたつもりだった。
「うん、ありがとう。――あ」
「なに?」
「ごめん。俺、コーヒーには何も入れたくなくて」
「ブラックだよね。知ってる」
 高校生の時からそうだった。彼の友だちが、なに大人ぶってんだよ、と茶化していたのを覚えている。彼は困ったような顔をしながら、ちょっと恥ずかしそうにしていた。たぶん、本当に砂糖やミルクを入れたものは飲めなかったのだ。昔から。十五歳のころから。
 ブラックコーヒー。私にとってそれは「おしおき」のようなもので、仕事中眠たいとき、どうしても運転しなければならない夜、そんなときに自分自身を痛みつけて覚醒を促す、そのための薬のようなものでしかない。薬剤師のいらない特効薬。カフェラテやフラペチーノなら美味しく飲めるけど、でもブラックコーヒーは別。役割のある飲み物。
 でも、色だけは好きだった。暗い、海のなかみたいな色で、深海みたいな不思議さがある。私は彼の、わかりやすそうに見えるのにどこか暗い影がこもっていそうなところが好きだった。彼はしゃべらない。特別だからあまり言葉がいらなくて、まるで深海魚のような、ふしぎな様相を呈している。
 なんて長々と私は彼を語れるけれど、決して口にだしてはいけない。
「え? なんで知ってんの」
 彼が少し怪訝そうに言うから、私はすこし考えて、こう言った。
「中国語の授業で、自己紹介したときあったでしょ。そのとき言ってたよ」
「うそ、よく覚えてるね。懐かしいな、中国語。自分の名前を中国語読みで言ったりしてさ」
「うん、わたしあなたの名前、覚えてるよ」
 こうでしょ、と彼の名前の中国語読みを口にする。
 まるで魔法の呪文みたいに不思議な響きを持つ、あなたの名前。
「なんでも覚えてるんだね」
 彼がそんなふうに笑うのは、私と彼とがあの頃ぜんぜん親しくなかったから。
 というか、三か月前に同窓会で再会するまでは十年近く会っていなかった。フェイスブックで近況はなんとなく知っていたけど、友達ですらなかった。ツイッターも知らなかった。
 いまだって、別に友達でも、あるいは明確な恋人でもなくて、でも家に泊めたりするような関係をやんわりと構築できている。このままどこにも進みたくないし逃したくもない、不思議なうすい網のなかにいる。
「由香は? どんな呼び方だったっけ」
「さあ。忘れちゃった」
「なにそれ、自分のは忘れちゃったんだ。変なの」
 彼がもう一度、くつくつと笑う。
 変なんじゃなくて、恋の力なんだけど、彼は気付かなかったようだった。
 まあ、十二年も前からひそやかに片思いされているなんて、普通気付かないものなのかもしれない。したことはあってもされたことはないから、よく分かんないけど。
「これ、どこにやればいい?」
 洗い終えた蓋を盾みたいに彼がかかげる。朝日が後ろの小窓から射しているからか、少しだけRPGの勇者のようにも見えた。王子様じゃなくて、剣をとって戦う、実学的なひと。
「戸棚のなかなんだけど、貸して」
 インスタントの粉を溶かしきったことを確認して、子どもっぽいキャラクターの描かれたマグカップをコースターのうえにおく。あくびを続けながら、私は彼から聖なる盾を受け取った。
「じゃあ交代。あれ? 俺のしかないじゃん」
 彼がマグカップをもうひとつ、私の戸棚から勝手に出す。そういうところが本当に好き。
 続けて彼がインスタントコーヒーの瓶を手に取るのを、少しだけ迷ってから、止めた。
「ごめん。私、朝は紅茶しか飲まないの」
「そうなんだ」
 彼はなんともなしに、ネスカフェの隣にあったアールグレイのティーバッグを手に取った。砂糖は、ミルクは、と聞かれるから、砂糖だけ二つ入れてと頼む。
「甘いの好きなんだね」
「意外?」
「うーん、どうだろう」
 意外とか意外じゃないとか、そういう評論を下せるほど私を知らないために、彼はそんなふうにお茶を濁してわらった。
 ずっとそうだった。ひとつ星が回る間、私はずっと彼に恋をしていて、彼と出会えたのも勇気を出して連絡先を交換できたのも、飲みにいけたのもデートができたのも今ここに二人でいることも、すべて運命の導きのようなきらめきだけど、彼にとっては十二年越しに懐かしい彗星に出会っただけの朝。平凡な朝。
「いいんじゃない。なんか可愛くて」
「とりあえずそう言っておけばいいって思ってるでしょ」
「思ってない、思ってない。ほんとだよ。だって由香、昔からミルクティーとか昼によく飲んでたじゃん。だから、あ、ミルクはいらないのか、ってちょっとそこだけ意外だった」
「うそ」
 ミルクティー。彼の言葉を嗅ぎにして、ふわりとアロマの香りが立つみたいに、記憶が再生される。コロコロと、昔の映画のフィルムが回るみたいに、ゆっくりと。
 プール終わりの昼下がり、倫理の時間。先生は優しく、もう、起きなさい、ってみんなを諭すのに、だれもかれも眠っている。先生はぬるい教室のなかでため息を吐く。その音で私はなぜか起きて、黒板を見る。板書しなくちゃ。でも、誰も起きてない。ぐるりと首を回すと、降参したように頭を垂れた行列のなか、一人だけしゅんと伸びた背中。椅子のしたにはブラックコーヒーの空き缶が、隠すように置いてある。
 学校プール特有の塩素消毒のにおいが、どうしてかとつぜんこの1LDKの小さな部屋に漂う。記憶は嗅覚に宿るような気がする。
 私はミルクティーのロング缶を取り出して、前の人に隠れて一口だけ飲んだのだった。冷たさが頭から、喉へ、胃へ腸へと落ちて、意識の覚醒を助けてくれる。それから五十分、私たちはほぼ二人だけで授業を受けた。先生にとっては悲劇でも、私にとっては大切な思い出。質問するために手を上げるあなたの、透明なまじめさ。
 ――かなわない。
「覚えてくれてて嬉しい。いつも、三点コーナーから点を入れるよね」
 十二年後に戻った私がそう言えば、彼は不思議そうに首をかしげる。
「え?」
「とつぜん、三点なの。高校のときにね、初めてちゃんとバスケットのルールを知ったの。同じゴールでも、点数が違うんだって、それまで知らなかった」
「ああ、バスケの。スリーポイントエリアのことね」
 彼はあのころ、バスケ部の主将だった。だから、彼のことを知っている女の子は多かったし、事実彼は少しもてた。だけどあまり喋らないからか、異様に冷たい(私の大好きな)瞳のせいか、彼女はいなかった。私が知らなかっただけかもしれないけれど。
 そういう、自分へ向けられる視線のことを知っていて、だけどそれをブラックホールみたいに、あるいは砂糖もミルクも溶け込ませないコーヒーみたいに、吸い込むだけ吸い込んで、答えを返さない彼が好きだった。勝手に好きだった。
 でも、十二年前からずっと好きだったんだよ、なんて、少女マンガでもあるまいし、たぶんずっと言えないままだろう。
 いつかはこの辛抱が、切実さが、私を救う朝がやってくるだろうか。もう十分に救われきっている、とも思うのに、「めでたしめでたし」には程遠い。この現実は童話ではないから、もう少し忍耐が必要。
 救いの朝は今日ではなかった。たぶん、明日でもない。近い将来のことでは決してない。だけど、いつかは。
「……これ、結構おいしいね。どこの?」
 あなたが自然と紅茶を入れてくれる朝だって、来るのかもしれない。
 だって、ドリブルを見つめていただけの私と、世界の中心にいたあなたとが、いま、コーヒーと紅茶とをそれぞれ片手に、向かい合っている。今日までの時間をかけて、ここまでこれた。
「駅ビルの地下のやつ。今度、持ってってあげる」
 十二年前のわたしが見たら、夢のようだと泣くだろう。私の部屋にあなたがいて、あなたの焼いたひとつだけの目玉焼きを二人で食べて、私は紅茶を飲んで、あなたはコーヒーを飲む。幸せってこういうことだと、昔の私は思ってた。人生の仕組みも、一緒に夜を過ごしたのにどこかよそよそしい朝も、なにもかも知らなかったから。
 あなたがブラックホールなら、私はそれにただただ引かれる宇宙の藻屑になって、その中心に入り込む少し手前で永遠に時を止めていたい。これはただの物理現象だから、幸せとか愛とかとは別のものなんだけど、それでもわたしは。
「あったかい」
 心のふしぎな冷たさと、粘つくからだの熱、そして喉から胃へと落ちてゆく紅茶の熱さが、私の体のなかでぐんわりと交じり合って、不思議な温度になる。ぐるぐると体中の体液が混ざったような感覚のなか、私は実は嫌いな目玉焼きの端っこをほおばって、彼の暗い目を見てわらった。

<了>

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