君と最後に見つめ合ったのはいつだろう。あれ以来、僕は心にぽっかりと穴が空いたままである。まるで風のように、君は僕の前から消えていった。電車に乗る前、一瞬だけ君は振り向いたものの、僕はその表情を直視することは出来なかった。いや、僕の心がさせなかった。まだ、サヨナラではないだろ、また逢えるよな。ちっぽけな直感だけど、させなかった。瞼を閉じたとき、その隙間から一瞬だけ見えた真っ白なスカーフの輝きは一生忘れられない。最後に一度だけ、君を抱きしめたかった。後悔はそれだけである。
あれから数年。“僕”こと「紺野雅貴」は大学生になった。何か目指すべきものがあったわけでもないが、上京して、世間的には“名門”とされるような大学に入ることが出来た。最初は独りぼっちだったものの、暫くして、共通の趣味を持つ友達が出来た。その友達に勧誘されて入った、吹奏楽のサークル活動にも勤しんだ。ちなみに、パートはテナーサックス。高校時代は全国的に有名な強豪校で、ブラスバンドを楽しむ暇などなかった。だけど、このサークルは純粋に音楽そのものを楽しめる。高校時代の彼女のことなどすっかり忘れ、僕は大学生活を純粋に満喫していた。
そんな大学生活が一変したのは、大学二年生になったばかりのある日。好きなバンドのライブを観に行くために、下北沢を急ぎ足で歩いていると、何処かで逢ったことのあるような女性が近づいてきた。明らかにあの日の“君”である。女性はちらりとこちらを見て、通り過ぎていった。僕は声を掛けるか迷った。でも、今声を掛けなければ、もう一生再会できないかもしれない。勇気を振り絞り、大きく息を吸って。
「あなたは、ほ、星名さん、星名楓さんですか。」
その女性の頬は真っ赤に染まっていた。そして、静かに頷いた。
「まっくん。まっくんも、東京来てたんだ。」
僕は彼女の表情を確認した。あの日の“君”は全く変わっていない、そのままの“星名さん”だった。星名さんは綺麗だ。内面も、外面も、その全てにおいて。僕が星名さんと最初に付き合っていた高校時代の頃から、星名さんは美しいほどに純粋だった。その性格が災いして、時に傷つくこともあったけれど、彼女は決して泣かなかった。別れの日と、吹奏楽部の全国大会で銀賞に終わった時を除けば、僕は星名さんの泣き顔を見たことがない。でも、クールなんかじゃなくて、仲の良い友達には気さくに接してくれる。自分で言うのもなんだけど、恥ずかしがり屋の“僕”と、リーダータイプの“君”は何処かで繋がる運命だったのかもしれない。そんなことを言っても、僕らが最初に出逢ったのは高校で吹奏楽部に入ってからなんだけど。
僕らはそれぞれの時を過ごした後、夏休みに入った。また恋人同士という関係に戻ったのは良いのだが、お互い忙しすぎるため会う機会がない。LINEで「おはよう」と「おやすみ」を繰り返す以外に、SNS上ですらも会話をすることがなかった。折角の夏休み、二人はバイトなどで相変わらず忙しい日々を過ごしていたものの、八月に入ったばかりの土曜日、僕は勇気を振り絞り、星名さんと一夜を共に過ごすことにした。
その日、僕らは最寄りの駅で待ち合わせをしていた。僕は時間通り、駅に到着した。だけど、星名さんはなかなかやってこない。ふとスマホを確認してみると、一件の通知。宛名は君から。要約すると、こんなことが書いてあった。
「ごめん、ちょっと遅れるから。」
大事な約束のときに限って、こんな感じ。十分くらいして、ようやくやってきた。なんとも言えない空気。ちょっと、嫌な空気が流れている。
「まっくん、待った?」
「いや、全然。」
「ごめんね。電車がわからなくて。」
「絶対嘘だ。」
「ばれた?本当にごめんなさい。」
星名さんは頭を下げた。星名さん、彼女の名前は“楓”だから、これからはそう呼ぶことにするけど、彼女はいつも通りの笑顔で、僕に謝罪した。あまりここに長居するのも良くないから、とりあえず僕の家に彼女を迎え入れることにしよう。
「星名さん、そろそろ行かない?」
「りょーかい!」
「荷物、それだけで大丈夫なの?」
「うん。」
ちなみに、この日彼女が持ってきた荷物は、THE NORTH FACEのリュックサックに入る分だけ。女の子だから、化粧品とか、いろいろありそうなものだけど、楓は高校生のときからずっとそう。必要な荷物が最低限入るだけの鞄を持ち歩いていた。
「まっくんの家って、どんなの?」
「普通のアパート。行けばわかるよ。」
僕と楓は燦々と照り付ける日差しを所々避けながら、駅から徒歩十五分の家を目指した。暑くなければ全然そんなことはないのだけれども、夏の暑さの所為で家が遠く感じる。幾つかの横断歩道を渡り、時にクラクションを鳴らされ、ヘトヘトになった楓を励ましながら、僕らは歩き続けた。
「まっくん、疲れたよ。」
「近くに駄菓子屋さんがあるから、そこでちょっと休憩しよっか。いい?」
楓は満面の笑みを浮かべながら、頷いた。
「賛成!!」
僕らは、目の前の十字路を左折した。家は目と鼻の先だけど、疲れた時は少しくらい寄り道してもいいだろう。百メートル先、駄菓子屋。所々錆びてしまった看板が見える。地元の駄菓子屋を思い出して、なつかしい。だから、ここにはよく来る。ちなみに、ここのおばあちゃんとは既に顔見知りだ。
「いらっしゃい。あっ、今日は一人じゃないんだね。」
「はい。僕の彼女です。」
「そう、あなたにも彼女が出来たんだね。」
「まだ、付き合って数ヶ月ってところですが。」
僕と楓は、手を繋いだ。僕は昔からの定番、苺味のかき氷を選んだ。といっても、ちゃんとかき氷機を使って作るものではなく、いわゆる“しぐれ”と呼ばれるようなもの。楓は、こちらも定番のラムネ。支払いが終わると、楓は早速ラムネを開けようとする。駄菓子屋さんの外にぽつりと佇むベンチに座り、玉押しを必死に押し込もうとする。でも、要領が悪くて開かない。
「僕が開けようか?」
「いいよ、頑張って私が開けるから。」
でも、開かない。僕はかき氷を口の中に放り込みながら、その様子をそっと見ていた。楓はいつまで経ってもラムネの蓋を開けられないから、ちょっと涙目。
「ほんとに、大丈夫?」
「ごめん。まっくん、開けてください。お願いします。」
長い髪を垂らしながら、僕に頼んできた。突き放すのも可哀想だし、周囲の目もあるから、開けてあげることにした。
「楓、ラムネって、こう開けるんだよ。」
いつものように、僕はラムネを開けた。ビー玉が下に落ちてゆく。楓はその様子を興味深そうに見ていた。しかし、いつもと違うところがひとつだけあった。楓が悪戦苦闘している間に、ラムネを思わず振ってしまい、中身が噴き出してきたのである。
「あっ、やっちゃった!」
「もう、まっくん、何してるの?」
頬を膨らませて、楓は僕を問い詰める。僕は苦笑いした。
「お前のせいじゃん。」
「まっくん、ひどい!」
「えっ。」
こう言われると、何も言えない。僕は溶けかけのかき氷を手早く口に掻き込んだ。楓は困ったような顔で、全部飲み干した。そして、顎に少しだけ付いたラムネをハンカチで拭いた。かき氷の容器はちゃんとゴミ箱に捨て、ラムネの容器はおばあちゃんに渡し、再び僕の家を二人は目指し始めた。太陽が少し沈み始めているのが見えたから、先ほどより少しだけ早歩きになる。だけど、楓はそんなに速く歩けない。僕は少し気を遣いながら、道を急いだ。
「まっくん、もうダメかも。」
「ほら、もう家はすぐそこだよ!」
「ホントに?」
楓の額には、大粒の汗。だけど、僕は見なかったことにした。そんなに遠くない距離にも拘らず、明らかに時間がかかりすぎている。文句は言っても、楓は僕に一応付いてこれているのだから、このまま繋いだ手は離さず、気付かれないように、ちょっとだけペースを上げてみよう。数十歩歩いた先に、もう家はあるのだから。
「楓、着いたよ!」
「ここ!?」
「そう。ここが僕の家。」
「なんというか…普通のアパート。」
「悪かったな。」
ホンの少しだけ、イラッとした。僕がバイト代と仕送りで借りられるアパートは、これが限界である。これ以上高い物件を借りてしまうと、毎日もやし生活を送らなければいけない。ラムネやかき氷を買うお金も無くなってしまうのだ。大学生の悲しいところである。僕は楓を連れて、二階の自室に入った。一応、ワンルームではない。だから、同級生たちに比べれば少しはマシなのかもしれない。世間話を交えていると、部屋に着いた。
「入っていい?」
「どうぞ。」
「まっくんっぽいね、やっぱり。ちゃんと整頓されてるし、お洒落だし。」
「全然そんなことないって。自慢できることがあるとすれば、家具を全部自分で組み立てたことくらいかな。」
「じゃあ…」
「そう、そういうこと。」
「そっか。あそこなら安いし、デザインも良いし、まっくんでも買えるくらいの値段だし…」
「もういいだろ?...わりかし、これ気に入ってんだぜ?」
楓は二人がけの黒いソファーに座った。僕もその隣に座ろうとするが…
「まっくん、シャワー浴びてきてよ。」
「えっ?」
「だって、夏の男の子の匂い、苦手だもん。」
「わかった。」
僕は追い出されるような格好になった。楓は再放送のドラマや、ラックから見つけ出してきたドラマのDVDを観て爆笑している。普段は清純派な彼女の持つ、意外な一面、見つけてしまった。
「今日の晩御飯、どうしよっかな。野菜炒めでいっか。でも、今日は楓が来てるし…」
果てしない独り言。僕はシャワーを浴びながら、これからの予定を決めるということを日課にしている。
「まっくん、何独りごと言ってるの?」
突然扉が開き、飛び出してきたのは楓の顔だった。
「びっくりした。どうしたの?」
「ずっと何か言ってるから、どうしたのかな…って。」
僕は困惑した。とりあえず、楓をリビングに帰そう。
「とりあえず、恥ずかしいから、一旦戻ってよ。」
「わかった。まあ、何もなくて良かった。」
楓は一瞬微笑んで、扉を閉めた。なにか、落ち着かない。僕は身体を洗いながら、首を傾げる。いつもより少し長めの時間だったかもしれない。僕がシャワーを浴び終わった頃には、太陽がより沈み始めていた。
「まっくん、気持ち良かった?」
「うん。」
「晩御飯はどうするの?」
「僕が作るけど。」
「私が作ってあげても、いいんだよ?」
楓の上目遣い。似合わないけど、可愛い。思わず、首を縦に振りそうになった。でも、自分の家なのに、人に料理をしてもらうわけにはいかない。今の時代、男の子が料理をしないっていうのも、なんか変だし。
「僕に任せて。」
「何作るの。」
「カルボナーラと、オニオンスープ。」
「…いいじゃん。」
「でしょ?」
「でも、まっくんが料理するイメージなかったなぁ。」
「一人暮らししてるんだから、多少はできないとね。」
チーズを削り、ベーコンを切り、パスタを茹で…楓が心配そうな眼をして見守っていたから少し緊張したけど、自分的にはかなり良い感じで作ることが出来たと思う。なんの変哲もない、カルボナーラ。オニオンスープは、レトルトのもの。それに、クルトンを後から入れる。それだけでも、見た目が良くなるし、なにより美味しい。僕はいつもこうしてる。
「楓、出来たよ。」
「えっ、これ全部まっくんが作ったの?」
「オニオンスープはレトルトだけど。」
「そりゃ、こんな短時間で二つも出来るわけがないと思ってたけどね。」
「ちょっと言い方がひどい。」
「でも、美味しそうじゃん。」
「ありがとう。」
僕は料理をダイニングテーブルに運んだ。これも自分で組み立てたもの。僕と楓は、向かい合って座った。
「いただきます。」
「いただきます。」
まず、僕はカルボナーラから食べてみた。いつもよりチーズを多く入れてみたけど、味のほうはどうだろう。塩辛くなってないかな。ちょっと心配だったから、楓より先に食べてみることにした。夕焼けが部屋に強烈な光となって射し込んでくる。それをカーテン越しに眺めながら、僕たちは食べ続けた。
「このカルボナーラ、お店の味みたい。でも、何か足りない気がする。」
「あっ、やばい。コショウだ!」
緊張のせいで、仕上げにコショウをかけるのをすっかり忘れていた。恥ずかしい。僕は急いでコショウをかける。これで足りないものはないだろう。
「これこれ。薫り、良くなったね。」
「ごめん。」
「でも、美味しいよ。」
「ありがとう。」
最初のうちは比較的黙々と食べ物を口に運んでいたが、しばらくすると高校時代の話を楓が始めた。
「そういえば、高崎くんって、今どうしてるのかな。」
「高崎?多分、元気にやってると思うけど。」
スマホを取り出し、六月に高崎から届いたメールを楓に見せる。
「あの子、独りでやっていけるのかな…って不安だったけど、頑張ってるみたいね。」
「うん。賢翔と、美玲も、光輝も、それぞれの道を歩んでる。」
この三人は、高校時代の同級生である。僕と楓が吹奏楽部で、三人は軽音楽部。それぞれの担当楽器は、ギター、ボーカル、キーボード。そういえば、高三のときの文化祭では、吹奏楽部がホーンセクションとして軽音楽部と一緒に演奏したっけ。
「みんな、離れ離れになっちゃったからね。こうして、一緒にいるのは僕らだけか。」
「そうだね。まっくんは大学でもテナーサックスなの?」
「テナーと、新しくドラムを始めた。」
「まっくんにドラムのイメージがない。」
「ドラムを叩ける人がいなくて。一時期僕はパーカッションやってたでしょ?」
「思い出した。まっくん、あの時は大変だったよね。」
「でもさ、全然わからなくて。サックス戻りたいな。」
楓が部屋の隅っこに置いてあるテナーサックスのケースを不思議そうに見つめる。
「あれ、もしかして、サックス新しく買った?」
「いや、ケースだけ。」
「そっか。」
「スティックと、ドラムセット。あと作曲用のキーボードも買ったから。」
「まっくん、意外と金遣い荒いな。」
「でも、仕方ないじゃん。サークルで要るから。」
「サークルで?音大の私よりも設備が充実してる気がする。」
「やるなら、こだわりたいなと思って。」
僕たちはテレビを見ながら、二人でしばらく最近のことについて、話した。すっかり陽は沈み、夜の荘厳な闇に街は包まれている。楓は時々微笑みながら、僕は割と真面目な感じで、話し続けていた。時間が経てば経つほど、その会話は熱を帯びてくる。恋人同士というよりは、まるで二人だけの同窓会のよう。音楽という分野を接点として繋がった二人が、今会話していることはごく普通の世間話。いろんなことを語り合った。その中でひとつだけはっきりさせておきたいことがあったから、少し強引に話を切り出してみることにする。
「そういえば、楓。僕らって、付き合ってるんだよな。世間的には。」
「急にどうした?」
「そりゃ、びっくりするとは思うけど。一応確認しておきたくて。」
「確かに、私たちは恋人同士なのに、恋人らしくないかもね。」
「そうだね。でも、恋人らしさって何かと言われると、ちょっと困ってしまうかも。」
「わかる。だから、今のままでもいいのかな。」
「僕は、今のままでいいと思ってるよ。改めて言うけど、別れる理由はない。」
「同じく。」
妙な雰囲気になってしまった。でも、言いたかったことが言えて、満足している。部屋の時計を見てみると、その針はもう十一の針を指していた。
「楓、そろそろ十一時だけど、本当にシャワーいいの?」
「やっぱり、浴びてこようかな。」
「わかった。シャンプーとか、コンディショナーとか、一応置いてあるから。」
「ありがとう。出来るだけ早く上がってくる。」
「ゆっくりしてね。」
「なんか、いやらしい。」
僕はちょっと強弁気味に言った。
「何も思ってないって!」
「信用してあげる。」
言葉が出なかった。楓はそのまま浴室に入っていった。何も音のしない夜のリビング、僕は大量に溜まった友達からのLINEにひとつずつ返事をした。約十分程すると、さっきよりも綺麗になって、楓が戻ってきた。濡れ髪がいつもと違う雰囲気を醸し出している。ちょっと、エモいかも。
「どう、たまにはこんなのもいいでしょ。」
「なんというか、かわいい。」
「まっくんに言われると、何か変な感じ。というか、意外。」
「僕だって、言っても良いでしょ。」
なぜか、楓は僕を真剣な眼差しで見つめた。そして、笑った。僕は少し意味がわからなかったけれど、それにつられて笑った。一時期、楓は“楽器が吹きにくい”という理由でボブにしていたけれど、やっぱりロングの方が十倍くらい良い。僕の個人的な意見だけど。
「そろそろ、寝ない?」
「あえて、オールするとかどう??」
「楓、それは無茶だって。」
「これからのこととか、いろいろ話したい。」
「久々だし、まあ、いっか。」
「ほら、これもあることだし。」
「勝手に…」
銀と青のお馴染みのエナジードリンク。深夜にヘッドホンをして、作曲するときの相棒。一応、何本かいつも置いてるんだけど、楓はどうやらこれに気付いてしまったらしい。でも、楓らしい。洞察力に優れたところとか。
「もう、飲んじゃう?」
「こういう類のドリンクって、飲みすぎると効果がなくなるんだよね。」
「それ、よく言われるよね。」
「でも、ちょっとした特別感があるじゃない。だから、飲みたくなるんだよな。」
「うん。目覚まししちゃおう。」
ひとつずつ手にとって、缶を開けた。ゴクゴクと飲んだはいいものの、やっぱり変わった味。何度も飲んでるけど、ちょっとした違和感が抜けない。でも、確実に目が醒めるから。
「エナジードリンク飲んだは良いけど、これからどうする?」
「そういえば、何も考えてなかった。」
僕と楓は、見つめ合う。
「また、DVDでも見ない?」
「もう飽きちゃったな。」
「私、まっくんとバンドとか組みたいなって思う。いつか。」
「恋人同士がバンドにいるって、変じゃない?」
「言われてみたら、そうだね。」
「楓、結構そういうところあるよね。バンドとか、グループを組みたがる。」
楓は無言で頷いた。僕と楓は、このままボーッとしてるのも時間の無駄なので、去年記録的な大ヒットを記録したアニメ映画を観ることにした。
「これ、ボックス買ったの?」
「ハマってたから。」
「まっくん、お金使いすぎ。いつも月末は金欠だってLINEを送ってくるじゃん。」
「う、うん。」
「まあ、いいや。早く見ようよ。」
「ポップコーンとコーラ、出してくる。」
「ありがとう。」
僕はポップコーンをリビングから取り出した。普通の皿だから、雰囲気が出ない。でも、仕方ない。コーラも瓶じゃないし、何もかもが物足りないような気がする。
「楓、ほら。」
「ありがとう。」
僕らは、二時間の映画を一気に見た。他にも特典がいろいろ付いていたので、それも纏めて。何度見ても、面白い。監督のコメントとか、メイキングとか、全部見てると朝になっちゃう。なんとか特典ディスク一枚を見終えたところで、外を覗いてみると、もう夜明け前。ちょっと眠くなってきた。
「エナジードリンク、もう一缶行く?」
「いや、今度はコーヒーがいいな。」
「コーヒー?」
「うん。私がコーヒー飲むって、そんなにおかしい?」
気付けば、僕の顔はいかにも怪訝そうな顔になっていたらしい。
「いやいや、そんなことないよ。」
「ホントに?」
「またその流れですか。」
僕は苦笑いした。楓の笑顔が少しだけ曇った。このままではマズイ。僕は、コーヒーを淹れてあげることにした。
「楓、ブラックでいい?」
「いいよ。」
久々に豆を挽くところから始めるコーヒー作り。こんなこと、何年ぶりだろう。小さい頃に飲んだコーヒーの味にハマった僕は、お父さんからお古のコーヒーミルを譲り受けたのである。
「まっくん、コーヒーも挽くんだ。結構こだわるね。」
「もう、何年もやってなかったんだけど。折角の“夜明けのコーヒー”だから。」
「夜明けのコーヒー…か。」
もう太陽は地平線から登り始めていた。部屋からは見えないけれど、空の感じでわかる。最初はエナジードリンクを飲もうとしていたから偶然とはいえ、二人で“夜明けのコーヒー”を堪能することが出来なくなってしまう。僕は急いでミルを回した。流石に、普通のペーパードリップを使って淹れる。しばらく待つと、良い薫りのするブラックコーヒーの出来上がり。
「楓、ほら、完成したよ。」
楓は手で匂いを集める。
「うわぁ、いい薫り。まっくん、本当にありがとう。」
「こちらこそ。今日は本当に楽しかったよ。」
僕のアパートからは見えないけど、西の空に明けの明星が輝く頃、一つの光が空へ飛び立っていくのだろう、きっと。僕らはそんな景色の一端を眺めながら、ホットコーヒーを飲む。二人とも、砂糖も入れず。一寸の濁りすらない漆黒。いつかはこの二人の時間が終わってしまうと思うと、ちょっと切なくなる。
「まっくん、確か、幼い頃はヒーローになりたかったんだよね。」
「誰から聞いたの?」
「高校時代、何気ない仕草が私の見ていたヒーローにそっくりだったから。」
「えっ?」
「でも、嫌いじゃない。まっくんのそういうところ。」
楓はコーヒーをみつめて、ぼんやりとしていた。
「楓、冷めちゃうよ。」
「あっ、ごめん。」
二人とも、ブラックコーヒーを飲み干す。これまでの人生で飲んだどのコーヒーよりも、美味しかった。赤色に輝く空が、その美味しさをより引き立てる。
「君と一夜を過ごせて、本当に良かった。だから、ひとつだけ今日は二人で過ごしたという証を作らない?」
「いいけど、どんなの?」
「そこに立って。」
楓が立った瞬間、僕は楓を抱きしめた。つよく、つよく、想いをぶつけるように。やっぱり僕はこの人がいなきゃ、やっていけない。
「ありがとう。」
「こちらこそ。また、こんな夜を過ごそうね。」
キスもいらない。言葉もいらない。心の中で、想いを確認できればいい。僕らはもう恋人同士なのだから。
そのあと、僕らは朝ごはんを食べた。目玉焼きとベーコンを載せたパンと、後からブルーベリーを入れたヨーグルトと、カフェオレ。いつもはこんなにちゃんとしないんだけど、これからはちゃんとしようと思う。食べ終わったあと、楓は午後からサークルだと言うので、駅まで送ってあげることにした。
「今度はうちにも遊びに来てよ。」
「いいの?」
「もちろん。美味しい料理、作ってあげるから。」
「でも、楓の料理は…」
「うるさい!」
玄関先での会話。帰りはスムーズに駅まで向かうことができた。楓はまたリュックを背負って、僕のあとを着いてくる。
「荷物、持とうか?」
「いい。」
「そう。」
重そうだったから助けようと思ったのに。ちょっと裏目に出た感がある。
「駅、着いたよ。」
「いつか、私の家にも来てね。約束だよ。」
「僕の家にも、また良かったら。」
「前より料理も上手くなってるんだから!」
「期待はしない。でも、ちょっとだけ。」
楓が腕時計をチラッと見る。
「あっ、やばい。そろそろ行かなきゃ!」
「急だな!?」
「家まで遠いんだ。」
「楓、また逢おう。」
「まっくんも。出来るだけ近いうちに。」
楓の手をそっと見守る。あの日とは違う、悲壮感のない別れ。楓の姿が人混みに紛れて消えていく。僕はそれを微笑を浮かべながら、見つめていた。
あの日のサヨナラの意味が、ようやくわかった気がする。君と街中で遭遇したとき、サヨナラと再会が手を取り合って、繋がったのだ。このあと、僕らは再び同じサークルで活動することになる。吹奏楽で始まった関係は、今も変わらない。一つだけ変わったことがあるとしたら、それは僕らが恋人同士になったということだろう。高校時代は、恋人なんかじゃなかった。
僕は家に帰りながら、こんなことを思っていた。白いスカーフが失恋の証なら、夜明けに飲んだコーヒーは恋の証。恋が愛に変わるとき、楓と過ごした最初の一夜を思い出せるように。明日はきっと明るいはず。希望を持って、僕は楓と夢を目指そう。高崎も、古森も、美甘も、それぞれの道を歩んでいるのだから。僕らだって、出来ないはずがない。
再び同じサークルで活動を始めた僕たちは、それぞれの大学で課題曲の練習を始めた。楓の希望で、僕はドラムスからテナーサックスに戻れることになった。とても難しい曲だけど、やりがいを感じる曲だ。やっぱり、楓は凄い。吹奏楽の分野だけは、楓に敵う気がしない。前でリーダーシップを取る楓は、格好良い。君と一緒に演奏できるこの瞬間が、生まれてきて一番の幸せだ。
まだ言ってなかったけど、楓、いや、星名さんの担当楽器はフルート。今日も東京の何処かで、フルートの音色が聞こえる。それに応えるように、僕はここでテナーサックスを奏でる。もしも、この瞬間を恋と呼ぶのなら。