斯くて魔女の行方は杳として知れず

神奈崎アスカ





 黎明の前より開け放っていたベッドの横の窓から、ふわり、優しい肌触りの風が入り込む。同時に、森特有の瑞々しい緑の香りと鳥たちの囀りも入り込んできた。
 しかしながら、ベッド横の小さな木の椅子に座り込んでいるジルの顔色はいっそ青かった。原因は、真っ白なシーツの海に横たわったままの真っ黒な裸婦。
「何をそう落ち込んでいるのだ」
 くつくつとほくそ笑む女は、限りなく黒に近い茶色の目を細める。
「年の近い男と女が同じ屋根の下にいるんだぞ? こういう展開になるのも可笑しくはなかろうて」
「年が近い……? いやいやそうじゃなくてだな……」
 小さく首を横に振り、ジルは頭を抱えた。それから背を丸めて項垂れると、頭一つ以上小さい女より小さく見えた。砂金色の短い髪が、顔を覗かせ始めた太陽の光を弾いてきらめく。
「何の前触れもなくそういう事に及ぶのは……その、女としてどうなんだ?」
 朝になって慌てて着ていた寝間着を着込んだジルと違い、女は裸のまま。この辺りでは到底見かけない黒い肌と黒い髪が、白や淡色で揃えたベッドの上でその存在を大きく主張させている。
 唐突に、昨晩、そのベッドで何が起こったのか、もとい何を起こしていたのか。それらを思い出してしまい、ジルは紅潮する頬を隠そうと片手で顔を覆った。闇夜、艶めく女の肢体と声、溺れる感覚、膨大なまでの熱量、途方もない欲求。
「てかあれはどう考えても夜這いだろあんた」
 引き絞るように紡がれた彼の言葉に、女は不思議そうに目を丸くさせる。
「夜這い? ここは私の部屋だぞ?」
「人を強引に連れ込んで押し倒したくせに……あんた、俺がやめとけっつっても」
 言いながら、昨晩の記憶が脳裏に、それこそ鮮明に出て来てしまったせいで、ジルは手で口元を覆い、言葉をぶっつりと途切れさせてしまった。しかし女は懲りずに、きょとんと首を傾げるばかり。
「その割には乗り気だったと思うが? 余程私の肢体が好みだったのだな」
 歯に衣着せぬ物言いの女に、ジルの白い頬が一瞬で真っ赤になった。
「そもそも私は弟子など取る気は毛頭なかったんだがな、後継たる子孫を育むのも魔女の努めだ、お前を雇ったのも種子として相応しいか見たかったからもある。お前が師匠に対して敬語を使わなずとも良いと言ってやったのも、そのためだぞ。弟子だからと畏まり過ぎても上手くいかん。あぁ大丈夫だ、孕まんよう腹にはまじないを掛けてある」
 好き勝手に言ってから、女は毛布で隠していた腹部を見せた。濃い肌色に、明滅する文様が見えた。ジルは暫し目を白黒させたがしかし、「そうじゃなくてだな!」と反射的に叫んでいた。
「まぁ、そう焦るな怒るな。無理強いした事については謝罪しよう。すまない。しかしだな、一年半は共同生活を過ごしているのに全くその気が起きんとなれば、私としては不安だぞ。不全なのかそもそもないのか女ではたたんのかと」
「……あんたに心配される謂われはないぞ」
「それもそうだな。ま、お前が健全な、付け加えるなら私好みの威勢のいい男であることは立証されたからな。尤も、普通の男なら、まず魔女に薬師の知を授かりたいとは言って来ないしな。さて、今日もきびきび働いてもらうとするか」
 つらつらと言葉を並べつつ、女はベッドから立ち上がり、軽く手を振るう。すると、招かれた従者の如く、棚に仕舞われていた布たちが女の元に舞い寄り次々と黒い肌を覆っていく。青を基調とした濃淡異なる薄布を、多重層菓子のように重ねた衣服を纏う女は、妖艶さ以上に異質さをその身に宿す。
 彼女が何者かと問えば、皆同じ答えを口にするだろう。魔女、と。
 そしてジル――フルネームで言うならジルベール――は、魔女の弟子、という位置付けだ。
「それよりも」
 くるり、と魔女は振り返り。
「いつまで呆けているつもりだ? 早く用意せんか」
 片目を眇めて口角を上げる様は、成る程魔女と言うより娼婦の如く。しかし、曲がりなりにも関係は師弟。師匠たる魔女の言葉に逆らう選択肢などジルにはないため、彼は普段より緩慢な手付きで身支度を整え始めた。
 漆黒をその身に宿す魔女の一日は、黎明の珈琲から始まる。曰く、先祖の故郷で愛飲されているという苦い煎り豆の出がらしとも呼べるそれを、ジルは来た日から毎朝毎晩作らされている。よって、例え朝から精神的疲労が莫大な量であろうとも、手が全ての順序を覚えていた。
 普段なら一つくらい出る欠伸は全く出ず、ジルは居間へと足を伸ばす。森の中にぽつんと、というには広い家は頑丈な石造りで、幾つかの部屋が存在している。その中で一番広いのは、玄関扉が壁の一部となっている、魔女の仕事場を兼ねた居間だ。
 やや重い足取りで入れば、光を取り入れる窓側に沿うように置かれた木の大きな机の上に、乾燥させた薬草の山や関連書籍が、相変わらず大量に出ている。意外と規則を持って置かれているこれらの分類を崩さずに片付け、朝食が摂れるだけの広さを確保するのが最初の仕事である。初めこそ何の意味があるのかさっぱりだったが、実際に触って繰り返し視認する事で知識の吸収を早く深くさせる魔女の意図があったのだと、思いたい。
 片付けに取り掛かる前に、釜戸に火を付けて――ここは魔女の手が入っているのか、少し火打ち石を鳴らすだけで適量の火が継続して付く仕組みになっている――、近くの冷暗所に置いてある井戸水を薬缶の中に注いで湧かす。
 銀色の取っ手が付いた硝子の水差しの上に濾し布を被せ、魔女が好む具合に挽いた豆の粉を濾し布に入れ、その上から沸騰した湯を注ぎ入れる。ゆっくりと、じんわりと。ここを手早く行えば小言が飛ぶ、という展開も体と脳が覚えているため、ジルは手の感覚に任せて珈琲の粉にゆっくりと、湯を注ぐ。
 そうこうしているうちに、長い黒髪を結い上げた魔女が居間にやって来る。普段は真っ直ぐ机に向かい椅子に腰掛け朝食が出来上がるのを待っているが、今日は珍しく机の上に包丁とまな板を用意し、どこからともなく二つの白い皿とパンが入った籠を取り出し、慣れた手付きで切り分ける。
「お詫びとして少しくらいは手伝ってやらんとな。ちなみに今日だけだ」
「だと思った」
 何故か得意気な魔女に生返事を返し、ジルは水差しから濾し布を取り外し、中に沈んだ黒い液体を二つの白い厚手のカップに注ぎ込む。取っ手に指を掛け机に置いた頃には、パン以外に果物のジャムやナッツ類のペーストが同じ形の瓶に入って行儀よく並んでいた。魔女に至っては、椅子に深く腰掛けて今か今かと珈琲を待ち望んでいる。
 食事の席に、自らを頂点とする魔女から祈りの言葉はなく。主神とは、信仰とは、他の誰でもなく己自身の心の安寧のためだと、かつて魔女は言い放っていた。信仰心こそあれど熱心ではなかったジルにとって、その考えは納得出来る部分があり、今は祈りの言葉を紡ぐことなく、木苺のジャムを専用の木べらで掬い取り、パンに薄く塗る。
 そんな彼の動作を見ながら、魔女は音を立てずカップの取っ手を右手の指に掛け持ち上げて、厚い唇で白い縁に触れる。左手は、腕を組むように右腕の脇の上に添えられる。
 二度、冷ますように息を吹きかけられた珈琲は、魔女の口の中へ、ゆっくり小さく少しだけ、流れた。
 唇にカップの縁を触れさせたまま、魔女は何かを思案するように動きを止める。時折視線だけ動かして、カップから立ち籠める湯気が消えてから、全体の半分だけ飲んで漸くパンに手が伸びる。それが、魔女の朝食の摂り方であった。何故そういう摂り方をしているのかは分からない、ただ、癖なのだと、ジルは思う。
 小鳥の囀り、羽ばたきが、窓の向こうで聞こえる。日が昇り、森の緑が彩度を増す。一日の訪れを、二人は改めて視認する。

 *

 魔女が何をしている者なのかと言えば、薬師であり医者である。確かに朝見たものは彼女の魔法であり彼女は間違いなく魔女だが、曰く「魔法は頻繁に見せるものではない」と口酸っぱく言う魔女に寄せられる主な依頼は、調剤と診断。いわば、医者のいない村々の医者代わりであり、魔女はその身に刻んだ膨大な知識と経験を以て依頼をこなしている。
 但し、魔女は余程のことがない限り森の中の自宅から出ない。村へは行かない。魔女という存在の奇特さを保つため、と本人は言っているが、ジルは別の予測を立てている。黒い肌と髪の女は、白い肌と金や茶色の髪を持つ住人が大多数を占める周辺の村では、浮く。普段の買い出しや村で依頼のやり取りを実際に行う役目をジルが一手に担っているのもそのためだろう。
 そもそも、魔女がジルを『薬師の弟子』としてわざわざ雇ったのは、足になる者が居なくなってしまったからだった。彼女は魔女らしく女を、出来れば後継になりそうな若い女を所望したが、魔女の弟子に進んで立候補する若い娘などおらず、代わりに薬師を目指していたジルが魔女と周りを説得して今の位置を手に入れたのである。
 果たして己は、本当に弟子として招かれたのだろうか。昨晩の出来事が蘇り、ジルは頭を振った。
 日が昇り、暫く経った頃。ジルは買い出しのため、大きめな麻袋を担いで村の中心へと向かって東に歩いていた。地味な色合いのシャツと上着とズボン、毎日履いてくたびれてきた革靴。村人と何ら変わりない衣服だ。東の村は牧羊を行っている場所でもあるから、ジルの服は寧ろ小綺麗かもしれない。何度も往復して慣れ親しんだ道を、真っ直ぐ進む。
 目的地である村の小さな集会所では、連日行商人が軒を連ね、今日もまた軽い賑わいを見せていた。売買には通貨を使う事もあるが、ここでは物々交換が基本。ジルは麻袋に入れていた魔女特製の薬や、まじないを施した様々なお守り――魔除けは勿論、若い娘達が好む恋占い用のもの、更には羊の安産祈願まである――と交換に、なくなりつつあった日用雑貨や食料を買い込んでいく。
 初めこそ不慣れで、それこそ魔女の薬の効能について上手く説明出来なかったり、相場を知らず割高に食料を買わされた事もあったが、今となっては特に問題なく行えている。一年半、という月日を振り返り、少し成長したような気分さえする。
 買っていく中で、魔女への新しい依頼をかける者も少なくはない。誰もが気さくに話しかけ、これが切れそうだから頼むだの、こういった薬はないのだの、親の体調が優れないから一度見て欲しいだの、多い時は指では数えきれない依頼が舞い込んでくる。
 依頼の多さは、誰も彼もが、あの魔女を信頼している証拠だろう。効能の良さや副作用の低さが、信頼に背中を押している。そんな薬を作り、時には診療に赴く魔女の弟子として暮らす彼は、すっかり村の一員となっていた。
 一通り指示されたものを買い、行きより重たくなった麻袋を担いだジルは、迷いなく西の森へと足を向ける。その時。
「おぉ、ジルじゃないか」
 ジルの背に呼び掛けたのは、彼より頭一つ半ほど低い小柄な初老の男であった。
「久しぶりです、おじさん」
「あぁ、久しぶり。こうして話すのは一ヶ月振りだったかね」
 声を掛けてきた男は、ジルが村に通って日が浅い頃より、何かと面倒を見てくれている行商人の一人だ。普段は南の町を拠点に地方の村を渡り歩いており、東の村へは時折足を向けて来る。
「今度はどの辺りを回って来られたんですか?」
「町より南へ足を向けて、えんやこらだ。売り上げは……まぁ、ぼちぼちだな。あの辺はいいぞ、ここと同じで諍いがない、のどかな畑が続いている」
「へぇ」
 あまり広範囲に渡って行動していないジルにとって、この小男が行った先々の話を聞くのは純粋に楽しく、娯楽のない村にとっていい情報にもなった。
「お師匠様、もとい魔女とはどうなんだい?」
「沢山しごかれていますよ」
「相変わらず大変だな。まぁ、お前さんのような男前なら、あの魔女だって取り込めるだろうて」
「はは……」
 ジルの口からは、乾いた笑い声しか出なかった。取り込むどころか抱かれた、などと、とても言えやしない。
 若干気落ちしているジルの心境に気付かず、男は近況報告をしろと言わんばかりに声を掛ける。
「それで、今どんな感じなんだ?」
「どんな、と言われましても……沢山、それこそ寝る間を削れと言わんばかりの課題は今でもしょっちゅうですし、あぁそれよりも朝食の準備が大変ですね。彼女、少々こだわりがあるので」
 朝食は、季節問わず黎明の頃に摂る。段取り自体は珈琲の抽出以外なんてことはないが、時間が左右するのだけは少々骨が折れた。何せ、起床時間に慣れたと思った途端、黎明の頃が変わるのだから。
 普段通りの調子で話すジルを、男は何かを探るように見ている。しかしすぐに視線を外し、軽く周囲を見渡した。
「ほれよ」
 そう言って、男は腰に付けていた鞄から何かを取り出し、ジルだけに見えるよう軽く掲げる。黄色を帯びた硝子の小瓶だ。
「それは?」
「気になって舐めたりするなよ。無味無臭だが、そいつは即効性だ」
「――という事は」
 ジルの声音が、一気に低くなる。男は頬に笑みを浮かべつつも目元を引き締め、頷く。
 依頼を実行する時が来た。
 ジルは、わざわざ魔女を師と仰ぐ薬師見習いであるが、単なる薬師を志す者として魔女の懐に潜り込んだ訳ではない。
 ジルベールは。彼の本職は、汚れ仕事を嫌う国の重鎮の代わりに手を汚す者――暗殺者。

 依頼があったのは、二年前になる。
 かねてより、国は密かに魔女狩りに心血を注いでいた。理由は至極明快、主神と国への信仰心が薄らいでしまう懸念があったが故。そして、徒党を組まれれば太刀打ち出来ないから。現に、国の介入が少ない東の村のような場所では、魔女の力は国の役人より、うんと信用されている。
 しかしながら、人智を越えた力を操る魔女を狩るのは至難の業であった。彼女らは誰よりも言葉の力を熟知し、言葉の使い方に長けている知識の民、賢者達でもあったからだ。国の動きに勘付いた彼女らは、一気に国を離れ、或いは国の手が届いていない地へと入り込み、居場所を得ていく。
 こうなってしまっては、魔女を探す事さえ難しく、東の村の外れに住む魔女の存在を掴むまでにも時間を要している。だが、一度見付かれば見失う事も少なくなる。彼女らは遠い大陸より海を越えてやって来た異大陸の血を濃く継ぐ者達。黒い髪と黒い肌が何よりの証拠だ。
 漸く見付けた魔女の一人を、如何に確実に狩るか。国の重鎮が頭を抱えた丁度その頃、魔女側から動きがあった。手足になる土着の娘を探している、と。
 そこで、識字率が高く、職業と依頼の関係で薬を扱う事が多かったジルベールに白羽の矢が立った。魔女は娘を所望していたが、周辺の村には魔女の弟子になりたいと名乗り挙げる娘はおらず、国側、つまり暗殺者側にもいなかったため、国は別の手段を取った。魔女の、ではなく、薬師の弟子を希望する者がいると、魔女に伝えたのだ。
 勿論、直接伝えたのは村であり、その裏にある国の存在を隠した上で、ある。魔女に話を通し、実際に会い、渋る魔女に兎に角真摯に希望を訴えて、薬師の弟子という位置を得た頃には半年が経っていた。
 正式に弟子になった後も、魔女の信頼を勝ち取るには想像以上の月日を要した。何せ、全力で動けば近隣諸国のパワーバランスを大きく覆しかねない存在なのだ。慎重になるのも致し方ない。
 この事実を、彼の依頼を鑑みれば、昨晩の出来事は彼女の信頼を勝ち得た証拠なのかもしれない。体もそうだが、それ以上に、心の信頼を。
 そっと男に掌を出せば、男はジルの手に小瓶を置いた。
「ちなみに、その量で二回分だ。分量を間違えるなよ」
「ええ」
 受け取ったと言わんばかりに小瓶を握り、ジルは笑う。あくまで穏やかに。それを見て、男は僅かに寂しそうに申し訳なさそうに、それ以上に使命に燃える目で彼を見上げた。
「検討を祈るぞ、ジルベール」
 それが、別れの挨拶であった。ジルは軽く頭を下げて、今度こそ森へと足を向ける。
 掌に転がる、黄色を帯びた小瓶を見つめてから、壊さぬよう握り締めた。覚悟を決めねばならない、――失う、覚悟を。



 森の家に戻れば、魔女は壁一面に広がる飴色の戸棚の中を覗き込んでいた。薬草が入った瓶が整列している中から目当てのものを取り出し、腕に抱えていく。
「おぉ、戻って来たか。して、どうだ?」
「今回も数が多かったから、全部紙に書いておいた」
「ふむ」
 と頷きつつも、魔女は戸棚の前を右に左に進むばかり。大凡の検討を付けつつも、気になってジルは声をかける。
「何を探してんだ?」
「解毒に使う薬……の材料だ。残り少ないのをすっかり忘れていた」
 律儀に答えて、片腕に解毒の薬に用いる薬草の瓶達を抱え、音が立つのも気にせず戸棚の扉を閉める。それから、迷いなく作業中と思われる机へと真っ直ぐ向かう。机の端には、解毒の薬が入っている、青く細長い瓶が置かれている。コルク栓がされている瓶の中には、光を通す程に澄んだ液体。太陽の光で透けて見えるそれの中身は、魔女の言った通り殆ど残っていない。目測だが、一回分、だろう。
 あれこれ引っ張り出したかと思えば、魔女は机の隅、青い瓶の横にそれらを固めて置いた後、既に広がっている部分に手を伸ばす。
「解毒の薬は? 作らないのか?」
「作りたいのは山々だが、依頼分をこなすのが先だ。依頼人は待ってはくれんからな」
 窓の光に照らされる魔女の横顔は、真剣そのもの。ジルは何かを言おうとしたが、それが何だったのか忘れた。それほどまでに、魔女の顔に強い意志を感じる。どこまでも硬質な宝石のよう、だと、ほぼ無意識に思った。
「ほれほれ、まずは買ったものの整理、戸棚最上段の掃除、それから保管庫の薬草の様子を見て報告しろ」
 珈琲色の目だけをジルに向け、手を動かしながら魔女は指示を飛ばす。すっかり彼女の指示に慣れたジルは、「了解」とだけ返して、早速村で仕入れてきた物の荷ほどきに着手した。
 普段と何ら変わりない、師弟の一日である。



 普段と変わらぬ、黎明前。空は冷たく澄み渡り、薄暗い世界は未だ寝息を立てている。
 ベッドから起き上がり着替えて、ジルは普段通り居間へ向かい朝食の支度を始める。懐に黄色を帯びた小瓶を忍ばせて。
 慣れた手付きで、昨日と同じ様に片付けから始まり、珈琲の準備。パンも用意し、こちらは軽く焼く。暫くすれば香ばしい香りが、広い空間に薄らと広がる。
 落ち着いた動作で珈琲も淹れた頃に、鮮やかな萌黄が目立つ、薄布を重ねたいつもの衣装に、黒髪をうなじで緩く纏めた魔女が現れる。密かに欠伸を噛み殺している姿を見たところ、昨晩は遅くまで調合やまじないをしていたのだろう。
「眠そうだな」
「まぁ、な……少々詰め込み過ぎたかもしれん」
 とろりとした珈琲色の目を瞬かせながら、椅子に腰掛けた魔女は僅かにジルを仰ぎ見た。瞬く瞳に、眠気とは違う温度が見えたのは、気のせいだろうか。
「そんなに依頼が立て込んでいたか?」
「いや。……兎も角、まずは目を覚まさねばな」
 そして、魔女はカップを手に掛け、普段通りの方法で珈琲を口に運んでいく。
 何てことのない、森が起きた音を聞きながらの朝食。
 互いに朝食を摂り終えた頃。変化が先にあったのは、魔女の方だった。何かを堪えるように強く眉を寄せた。
「……謀ったな」
 淡々と、口から漏れた一言は、全てを物語っていた。じわじわと苦悶の表情を浮かべる魔女を視認した瞬間、ジルの視界が一気に歪む。
「何に仕込んだか……分かるか?」
 己の異変に気付かせまいと、奥歯を噛み締めジルは冷ややかに問う。
 魔女の答えは、もう何も入っていない白いカップを持ち上げることで示される。ジルは頷いた。
「警戒心が強い、って訳でもなかったが……確実に仕留めるなら、慣れた頃、だと思ってな」
「……よく、考えた、な」
 掠れた声で返す魔女の声は、僅かに賞賛が含まれていた。効いているのだろう、言葉が途切れ始め、息をする度に肩が動いている。
 安堵した、と言われたならば、否定出来ない。目の前が白く焼かれ、座っているのかどうかさえ分からなくなり、ジルの体は傾いた。頭が机に直撃しそうになり、慌てて机の縁を掴み、その手の上に頭を落とした。
「ジル……お前!?」
 驚愕と焦燥をない交ぜにした表情を浮かべた魔女に僅かな驚きを覚えつつ、ジルは気力を振り絞り顔だけ上げて、皮肉めいた笑みを口元に乗せた。
「依頼が依頼だ、口封じで殺される可能性も充分に考えられる、いや、その可能性の方が格段に高い。これを渡した奴が何て言ったのか教えてやる……二回分、だ」
 想像以上に息が苦しい。震える手で、昨日魔女が言っていた細長い小瓶――解毒の薬が入った瓶を、ジルは机の上に置く。それから、力が入らなくなった指で、転倒しないよう、魔女へと差し出した。
「何故……私に差し出すように、置く?」
「さぁ、な……」
 それは、ジル自身が聞きたい言葉でもあった。
 薄れゆく意識の中で、必死に理由をこじつけようとした。殺した手より、生かした手の方が、生かし甲斐があるだろう。
「あんたの方が、よっぽど人の役に立ってんだ……いつだって、生きるべきは、役に立つもん、だろ……?」
 どうせ死ぬなら、人を殺す者ではなく、人を生かす者の方が。
 走馬燈、と呼ばれるものが、ジルの脳裏を慌ただしく過ぎ去っていく。日の当たらない場所で命を奪い続けた月日以上に思い出すのは、彼女との忙しくとも明るい日々ばかりで。
 仕事のためとはいえ、彼女から学んだ事は非常に多く、恐らく一生のうちに触れなかったであろう知識も得た。日陰で暮らす事が多い人生の中で、他愛ない弟子生活は太陽と共に生活した。
 幸福だったのだと、戻れないのだと、自覚する。この生活には戻れないだろう、元の日陰には戻れないだろう。どこにも、戻れないだろう。
 黒い魔女の手が、青い瓶を手にする。彼女は生きてくれるだろう。せめて、最期はもう少し美味しい珈琲でも淹れればよかったか。
 息が出来ない。それだけの行為が、こんなにも苦しいものだったとは。視界が世界が霞む、四肢が冷えていく。だからこそ、不意に頬に触れた生暖かいものにジルの意識は一瞬ひどく鮮明になった。
 唇は、皮膚の中で一番敏感だという一説がある。触れたものが何なのか、そこから注ぎ込まれたものが何なのか、理解が追いつかないまま、ジルは促されるように飲み込む。黒く細い指先がジルの両頬を覆っていたことなど、暫く認識出来なかった。
 まばゆさを増してきた窓の向こうで、木の枝が風に揺られて、かさりかさりと音を立てる。唐突に耳に入った音を切っ掛けに、ジルの意識は明確になってきた。唇に当たったものと飲み込んだものを、理解し、愕然とした。
「なん、で……」
 自らの命を省みず、殺そうとした者を生かす必要が、一体魔女のどこにあったというのか。
 見開いたジルの目の中で、彼の頬に触れている魔女は得意気に笑む。
「私を……魔女を舐めるなよ」
 そう言って、魔女の体は芯を失ったパスタのように、ジルの膝へ頽れた。
「っ、おい、なんでっ……!」
 意味が分からない。力が抜けた魔女の肩を揺すり、ジルは魔女の名前を呼ぼうとして、呼べなかった。ああ、そういえば、名前を教えてもらっていない。
 今なら、それが何故かよく分かる。真に信用されていないからだ。
「っ……ふふっ……ふははははは!」
 混乱、ここに極まれり。
 ジルの膝に手を付いた魔女が、大きく身を起こした。かと思えば鼻がくっつかんばかりに顔をよせ、凄絶に笑った。
「私は魔女だ、そして薬と毒の全てを統べる賢者の民だ。毒などとうにこの体が飼い慣らしておる! この程度の毒など効か」
 がたんっ、と音を立てて、魔女の頭がジルの右肩に落ちた。舌打ちが聞こえた、気がする。
「ちょ、あんた」
「しかしこれは……ちときついな……うっ」
 ジルの両肩に手を付いたかと思えば体を起こした魔女は、真っ直ぐ窓に向かい鍵を開け迷いなく窓の縁に足を掛けてから振り返った。
「ジルベール!」
「っはい!」
「落ち着いたら取り敢えず麦粥を作れ! どろっどろのやつだ! それから珈琲薄めで!」
 それだけ言い放って、魔女は窓の外に出た。目だけで彼女の足跡を追えば、近くの木の麓で蹲っている。背中の動きから鑑みて、吐瀉しているようだ。
 もう、何が何やら分からない。いつの間にか随分と楽になった息を、意識して吸って吐いて、ジルは緩慢に立ち上がった。
 机の上には、空になった解毒の薬用の青い瓶が無造作に転がっていた。



「流石に死ぬかと思ったぞ」
「そりゃあ、殺そうとしたからな」
 どうして俺は生きているんだ。そんな自問を短い時間に何度も繰り返したジルは、答えを見い出せぬまま、魔女の言う通り麦粥と薄めの珈琲を作り、二人揃ってどろっどろに煮込んだ、味が殆どない麦粥をつついていた。胃がむかむかと、まるで二日酔いになったかのような感覚を覚え、この状況で珈琲はどうなんだ、とさえ思った。
 本調子でない魔女は、椅子の上に片膝を立てて半ば自らを抱えるように腰掛け、右手で熱々の麦粥をスプーンで掬っては三度以上息を吹きかけてからちびちびと食べている。
「というか、わざわざこれ食べる必要があるのか?」
「……毒を酒と例えたら、分かるか? 体内に酒が入りすぎた人は吐くだろう? その時、胃の中に物がないと負担になる。なに、吐き気が来たらその辺で出しに行けば済む話だ。余裕があれば掘った穴の中に吐き出す方がいいぞ」
「吐くために食べるのか……」
 頷き、暫し喋ったために湯気が小さくなった麦が湯を、魔女はスプーンをくわえるように口の中に含む。至極ゆっくりと口を動かし、一言。
「熱い」
「作りたてだから熱いに決まっているだ……」
 既に口腔を軽く火傷させてしまったジルは、湯気が立ち上がる麦粥を口の中に収め、ふと思考する。彼女は毎朝珈琲を飲んでから他の食事に手を付けていた。夕食も、此方が作ってもギリギリまで仕事に励んでから手を付けていた。
「あんたもしかして……猫舌?」
「気付くのが随分と遅いな」
 眉を顰め、魔女は敵を見るような目で麦粥を睨み付けている。
 結局熱々の麦粥はスプーン三杯だけで手を止め、魔女は注文通りに作られた薄めの珈琲が入ったカップを持ち、中身を見て眉の皺を更に強くさせた。
「量が少ないぞ」
「この状況でしっかり一杯飲むつもりだったのか……」
 カップの中の、普段の半分しか入っていない珈琲をねめつけて、魔女は唇を尖らせた。
「ところで」
 文句を言いつつも結局は習慣である朝食の珈琲に口を付ける魔女へ、ジルは切り出す。
「いつから気付いていたんだ」
「最初からに決まっているだろう、阿呆が」
 にべもない魔女の言葉は、何故か納得するに十分の迫力を持っていた。
「確かに、手足になる者が欲しかったのは事実だ。魔女とは、魔術師とは、秘匿されるに能う存在。易々と近隣住民に関わりたいと、誰が思うか」
 国が魔女を狩りたい理由の一つは、その秘匿性から出る得体の知れなさだろう。ジルは薬師として彼女の門弟に下ったので教えられていないが、魔女としての術を伝える過程は全く知られていない。
 半分だけの珈琲に湯気は見当たらないのに、魔女は尚も膝を抱えたまま、警戒しつつカップの中身を傾けた。僅かに動いた喉が嚥下する様が、腕に隠れつつも僅かに見える。
「しかし、手足は必要だ。特に、此方の情報を漏らさないであろう、口の堅い者が、な。例えそれが、私を狙うであろう国の手先でも。そこで、娘が欲しいと言っているのに、お前がのこのことやって来た。これを訝しまずして何を怪しめと?」
「……仰る通りで」
 ぬるい珈琲を煽り、ジルはぐるぐると不調を知らせる胃を抱え、わざとらしく眉尻を下げた。
「なら、尚更気になるな。一目で怪しいと分かった奴を、何故雇った?」
 引っ掛かる点があるとすれば、おもにその一点だろう。
「お前を突っぱねたところで、連中は第二第三の【ジルベール】を寄越して来るだろうな。それなら、女ではないが薬の事前知識が豊富なお前をさっさと認めた方が早い。丁度、後継を作る必要があると考えていたところだったしな。昨日も言ったが、お前は私の好みだったし」
 すらすらと淀みなく、魔女は言葉を紡ぐ。魔女が賢者に連なる者であると、ジルは改めて実感した。予測出来るのであれば、自らが有利になる手筈を踏むのは至極当然だ。
 だからこそ、気になることもある。
「じゃあ」
 問いたいが、言葉に出来ない。その代わりと言わんばかりに、ジルの頬が紅潮する。
「なんて、あんなことをしたんだ」
 魔女の瞳が、静かに伏せられた。半分にも満たないカップの中身に目を向け、何かを言いたげに、或いは言うべき言葉を探すように、音も無く動く。
 憂うような瞳が揺らぎ、魔女は真っ直ぐにジルを見つめる。
「体を使ってでも惚れた男を引き留めたい、浅はかな女心というやつだ」
 そう言って、まるで恥じらう乙女のように、寂しさを紛らわせようとする娘のように、魔女は淡く微笑んだ。
 ジルは絶句した。
「どのみち、お前が仕掛けてくるのは分かっていたからな。それ以上に、どうやら私はお前の人となりを好いてしまったようでな」
 呆然とするジルに、どこか苦々しく笑みつつ、魔女は言葉を口にする。
「いくら魔女が言葉に長けていると言えども、人の心の変化まで完全に操れる訳ではない……流石に無理心中するとは思わなかったぞ」
「……その言い方はどうなんだ」
 くれぐれも、無理心中ではない。断じて。
 胃と頭が痛む。それでも麦粥と珈琲をさらえて、ジルは盛大に溜息を吐いた。
「ったく……これからどうしろと」
 一つ明確なのは、二年の歳月をかけた魔女暗殺計画が完全に絶たれた事実。口封じを受ける前に自ら絶とうとした命も生きながらえている。明日も見えない、とはこのことか。
 表情に影を落とすジルに、魔女は普段通りの口調で言う。
「一先ず、今日はいつも通り仕事を片付けるぞ。普段以上に丹誠込めて働け。処遇は、追って伝えよう」
「ああ」
 重苦しい吐息と共に、ジルは承諾意を零した。
 昨日も今日も、朝日に起こされる森の空気は一切変わらず。



 太陽が地平線にすら昇っていない頃。ジルは背中への攻撃によって強制的に起床させられた。
 軋む背中に手を当てれば、白を基調とした布をいつものように巻いた服を身に纏った魔女が立っていた。普段と異なるのは、右手に大きな杖を持ち、仰々しいと言わんばかりの化粧を顔にしている点であった。
 ただでさえ昨日の一件のせいで消化しきれていない毒素のせいで胃が痛むというのに、この起こし方は一体。
「ってぇ……何すんだあんた」
「引っ越すぞ、手伝え」
「……あ?」
 開いた口が塞がらなかった。
 さっさと着替えろ百数えるから三十までに着替えろ、と言い捨て部屋を出た魔女を訝しむ余裕はなく、そして言い返せる雰囲気でもなかったため、ジルは魔女が三十を数える直前に居間へ向かう。
 黎明前の居間は薄暗く、だからこそ、居間の床に壁にそして扉に書かれた夥しい文様の明滅がはっきりとジルの目に映る。魔法の手ほどきこそ受けていないが、一年と半年彼女と共に過ごしたからか、肌で分かった。美しささえ感じる文様の配列に、強い力が含まれている事を。
「……なぁ」
「なんだ?」
 居間の中心部に裸足で立っている魔女へ、ジルは疑心丸出しの声で問いかける。
「引っ越す、って、まさか」
「身ぐるみ一つで移動出来るほど、私は軽くはないぞ?」
 この魔女、やはり、家ごと引っ越すつもりだ。
 そんなことが出来るのか、と言いたかったが、ジルは懸命にその言葉を飲み込んだ。彼女がやると言い切ったからには、やるのだろう。家ごとの引っ越しを。
 昨晩、普段より随分と早く床についたジルは知らない。森に佇む家とその周りも、魔女が書いた文様でびっしりと覆われている事を。
「魔女とは世界に流るる魔を統べる者。魔を紐解けば、それは千里を見通す眼を得たも同じ」
 得意気に魔女は言うが、表情は今まで見た中で一番鋭く、真剣みを帯びていた。
「なに、高等技術ではあるが、私は既に経験がある。黙って身を委ねろ――最後まで」
 最後の言葉に引っ掛かるものを覚えつつ、ジルは手招きをする魔女の左横に立つ。薄暗い部屋の中、困惑で手一杯のジルの右手を、空いている魔女の左手が掴む。僅かに汗ばんでいる手を握り返してみて、胸が少し跳ね上がる感覚と、安堵感を覚えた。彼女は生きている、と。
 魔女の右手の杖には大きな水晶を中心とした飾りが付けられており、二度床を叩けば、飾りはじゃらじゃらと音を立てる。
「さぁ――行くぞ、新天地へ」
「は?」
 問う余裕など、ジルには与えられなかった。突如、床が揺れる。立っているのがやっとの揺れに加え、何故か床から突風が吹き上がる。魔女の手を握る己の手に力が入り、空いている左手で目元を覆う。
「――」
 その間にも、魔女の朗々とした言葉が紡がれるが、どうやら言語が違う。聞き取ろうにも突風と揺れによる騒音で完全に聞き取れず、ジルは揺れも風も収まるまで全く身動きが取れなかった。
 足の揺れが完全に収まるまで、果たしてどれくらいかかったのだろう。一瞬のような半日のような感覚に襲われ、ジルは顔を覆っていた腕をそろりと離す。居間に書かれていた文様は消え失せ、普段通りの佇まいを保持している。
 見たところ、室内に変化はない。ゆっくりと瞬きながら居間を見渡すジルへ、魔女は口元をきりりと持ち上げ、告げる。
「窓を覗いてみろ」
 言われるがまま窓を覗けば、昨日まで見えていたものとは違うものが視界の縁で流れていた。周りにはまばらに木が生えており、見晴らしのよい場所のようで、遠くを見れば見慣れぬ様式の建造物が軒を連ねていた。
「川……?」
 どうやら、この家は川の近くにある丘に鎮座しているらしい。
 目を白黒させているジルへ、魔女は高揚しているのか、にこにこと頬を持ち上げながら寄ってくる。
「どうだ?」
「どうだ、って何が」
 引っ越しさせた事に関してだと思われるが、ジルに上手く言葉を引き出す心のゆとりは残念ながら消え失せている。窓の向こうと室内へ視線を交互に動かすジルに対して、魔女は揚々と告げるのだ。
「先程も言うただろう。魔を操る魔女には、千里を視る眼があると。ずっとあの場に居れば、私もお前も追われるだけだろう? 故に、体の良い土地に移動させた。ま、平たく言うと国外だ」
 魔女の力は国境さえも超えるというのか。
 これほどの力を有しているなら、成る程魔女達で徒党を組まれれば一国では太刀打ち出来ないだろう。実際に彼女らが如何なる頻度で魔法を使うのか全く分からないが、警戒するに越したことはない。
 意識して大きく息を吸い、吐き。ジルは魔女を見やる。
「それって、つまり」
「うむ」
 念を押すようなジルの声に、魔女は力強く頷いてみせる。
「私とお前は、今日からある種の共犯者だ」
「共犯者……?」
 想像し得なかった単語に、ジルは首を傾げる。
「お前は私の暗殺という仕事をこなせなかったからな。しかも、私を生かそうとした。なら、どのみち逃げ場はなくなるだろう?」
「それはそうだが」
「だからこそ、国外逃亡を図った訳だ。新生活でも送ろうではないか」
 ふふふ、と楽しげに言う魔女だが、ジルとしては全く楽しめない。
 彼女が、ジルを生かそうとしている。その意図を感じてしまい、言いようのない感情がぐるりと胃を圧迫する。昨日とは違う圧迫具合が、一つの可能性を示唆する。
「新生活?」
「晴れて結ばれた夫婦の生活をそう言う場所もあるそうだ」
 ……上手く丸め込まれたような気がする。
 毒を盛られる展開も、引っ越すに至る流れも、全てはジルが魔女の元に訪れた時に仕組まれていたのかもしれない。果たして、それが単なる人助けなのか、魔女として子孫を残さねばならない責務からか、或いは本当に好いたからか、当分は分かりそうにもないが。
 人の計画を逆手に取り、本当に国外逃亡を家ごとやってのけた魔女はやはり得意気で、どことなく幸福に包まれている。先日の夜の件然り、普段は世のため人のために奉公している素振りの魔女は、自身の欲求に対して清々しいまでに自分優先に生きているようだ。
 唯一問題があるとすれば、ジル自身がそれを容認してしまっている点だろう。
「その前に、一つだけ教えてくれないか?」
 景色が大きく変わった窓を背に、ジルは魔女のすぐ前に立つ。
「共犯者の名前くらい、教えて欲しいものだな」
「それもそうだな」
 理由は分からないままだが、魔女は人に名前を教えないらしい。だが、彼女が新生活とのたまうのであれば、知りたいと告げるのは当然の権利だろう。そうでなくとも、ジルの内にはふつふつと、一つの感情が芽生えていた。
 自分にとってたった一人の魔女の名を、口にしたい。呼びたい。
 ジルの目を見上げて、魔女は何か悟ったものがあったのだろう。杖を左手に持ち替え、軽く右手を差し出す。
「魔女の真名は魔女だけのもの。故に全てを教える事は出来ないが――サリタ、と」
 魔女の目が、夜空の星々のように瞬く。
「サリタ」
「ああ、そうだ。そう、呼んでほしい」
 差し出された手は、汗ばんではいなかったものの、熱を持ち、そしてとても小さい。
 自分とは異なる、黒い肌に黒い髪、そして限りなく黒に近い珈琲色の瞳。その全てが、綻ぶ花のように、夜空を彩る星のように、或いはそれらよりも美しく見えて、ジルは目を擦る代わりに何度か瞬きをした。普段の、言ってしまえば高飛車な雰囲気がまるでない。彼女の雰囲気が違っているのか、それとも、自分の見る目が変わったのか。
 ずっと握っていてもいいかと思ったが、少し経てば互いに自然と手を離した。流れるように一歩引いた魔女の顔は、既に見慣れた高飛車な魔女の顔。
「では、ジルベール」
 魔女サリタは、片目を眇めて言うのだ。
「いつもの用意を頼む。珈琲は少し濃いめで」
「ああ」
 いつもの朝が、漸く訪れる。


 東に位置する村に在った魔女の家が、ある日忽然と姿を消した。村を張っていた国の者は探したが、終ぞ魔女と、国が寄越した暗殺者の行方は、杳として知れず。


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